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南町①
【みなみまち】


旧国名:伊勢

(近世~近代)江戸期~昭和38年の町名。明治前期は四日市を冠称することもある。江戸期は四日市町の1町。四日市町の南西部に位置し,中央部を南北に東海道が通る。地名の由来は四日市町の前身になる四日市場の発展に関連しており,文明2年田原忠秀が浜田城を築いた際に領国経済の発達を促すため柴田地内を通っていた東海道を城の東方に移し,四日市庭浦(洲浜・四日市湊)に通ずる東西方向の道路と交差させて,その四つ辻を中心に南市場・北市場・縦市場を開設したことによる。当地は辻の南に位置する市場であることから弘治・永禄期には南市場と称し,市場町として発展した。慶長6年東海道に伝馬の制が布されて宿場町へと移行するにともない,宿場町の性格を強め,寛文3年南町と改称した(昭和5年版四日市市史)。当町は宿場の中心をなし,問屋場が設置され,寛文5年から問屋・年寄らの役人には道中奉行所より米7石が給与された。当初は四日市宿で36疋の伝馬を常備し,上りは亀山まで(元和2年から石薬師までに短縮),下りは桑名までを往復した。当町の面積は9町余で伝馬は27疋を負担(寛永13年五町米盛)。慶安2年には41疋と増加し,四日市宿内五町(南町・北町・竪町と中瀬古・大浜)のうちで最大の数となる。寛文10年伝馬役は各戸の石高に賦課する高がかりに変更され,四日市宿で100疋・125軒の伝馬役のうち当町は45疋を53軒の伝馬役の家で勤めることになった。定飛脚は黒川彦左衛門家が代々家業とし,明治4年当町に四日市郵便役所が設置され,翌5年問屋場制が廃止されてからも明治40年まで貨物の運送を中心に陸運会社や内国通運支店として活躍した。明治9年の伊勢暴動の際には南町郵便役所と黒川運送店が破壊されている。文化8年の調査では本陣があり,脇本陣として黒川彦兵衛家(文化8年以降は二番本陣になる)があった。四日市宿に御茶壺一行が宿泊する時には当町は毎年宿所の詰番を勤め,また毎年4月・8月の二条城や大坂城の大番衆の交代時には北町とともに宿端まで出迎えて案内役を勤めた。また,当町は北町とともに旅籠屋町と呼ばれるほど旅籠が多く,天和3年には四日市宿全体の65軒のうち42軒が当町に密集し,文化8年には91軒,天保6年には106軒を数えた。飯盛女も弘化3年の四日市宿飯盛女抱旅籠軒数調によると,当町旅籠屋50軒のうち,1人抱4軒・2人抱23軒・3人抱9軒・4人抱6軒とあり,明治5年の芸娼妓解放令の際には当町で346人にのぼる数が記されている。これらからも,江戸期の宿場町としての繁栄を知ることができる。文化7年の改革では四日市町を7つの組に分けたが,当町と上新町とで南町組を構成して町代役2名を出している。毎年7月26日・27日に行われた諏訪神社祭礼(四日市祭とも俗称する)には,南町組として染分手綱・冠り合戦の踊りを練物として出し,西町に次いで2番目にでる。安政元年6月の大地震には浜田屋伝六方から出火し,東海道西側12間4尺を延焼して4軒が焼失,震災による潰家21軒・死者27人を出した。明治21年の戸数137・人口708(昭和5年版四日市市史)。同22年四日市町,同30年四日市市に所属。戸数・人口は明治43年277・1,003,大正7年459・1,830,昭和3年の世帯数500・人口2,542。当町は商業地区として発展し,大正9年の四日市都市計画事業に国道1号の拡張計画も盛り込まれ,昭和14年以降着工されて18m幅の道路が完成した。同33年の卸売店数17・小売店数25。同34年の世帯数123・人口600。同38年まで土地公称四日市の一部で,公称町名であったが,同年住居表示実施により元町・西新地・諏訪栄町・中部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7129502