六箇山
【むこやま】

旧国名:伊賀
(古代~中世)平安期~室町期に見える地名。伊賀国名張郡夏身郷のうち。名張山・太良牟山・太良牟六箇山とも。地名は6つの主要な山からなっていたことによるか。伊勢二宮領。平安初期,名張郡に所在する竹原と山林(360町)から,朝夕御饌に供する竹および藤・黒葛製の箕が伊勢神宮に納められている。これが六箇山の前身にあたる。その起源は定かではないが,伊賀国造らの祖先が貢進したものと伝えられる(皇太神宮儀式帳)。当初は四至も定まっておらず,神宮も箕を貢納する山林として領有しているにすぎなかったが,山内に居住する住人が増加するにしたがい,私用の伐木も顕著になり,さらに公験をたてに私領の存在を主張するものも現れたため,10世紀には神宮側は新たな対応を迫られることになる。承平4年に至り,官符により在地郡司(名張郡司か)に中祓が科され,四至の牓示が打たれた。四至を注進した承平4年12月19日の伊賀国夏身郷刀禰等解案によれば,比奈知・針生・長木・布乃布・大野・太良牟・色豆・上家・菅野・土屋原・曽児・高羽が四至内の地名として見える。しかし,その後も郡司らの抵抗は続いたようで,天慶6年には前郡司伊賀良茂が「太良牟山内」を私地と号し,住人に地子物を充て課したため,住人らから訴えられている。さらに同9年には神戸預らの訴えにより,山内居住の公民や浪人に代わって,神民のうち事に堪える輩を「太神御領名張山預職」に補任する旨の祭主裁が下された(光明寺古文書/平遺244・254・255)。こうして10世紀中葉には神宮は当地に対して領域支配を行う姿勢をはっきりと打ち出してくる。領域支配の進展にともない,周辺地域との境相論も起こってくる。元仁元年6月には朝廷の陣定において,「大神宮神戸伊賀国六ケ山」と興福寺末寺伝法院領(大野荘か)との相論のことが議題となっている(中右記同年6月9日条)。また天承2年7月には東大寺領黒田荘との境を実検するために官使が派遣されている(百巻本東大寺文書/平遺2226)。こうした境相論のなか,永久3年,神宮は宣旨により四至の確認とともに,二宮領としての認定をうけた(神宮雑書/鎌遺614)。元暦元年4月,平家没官注文に載せられていた平頼盛の家領34か所が頼盛に返還されたが,その際六箇山は信濃国諏訪社と交換され,新たに頼盛の所領となる。頼盛に与えられたのは領家職もしくは預所職であろうが,没官注文に入っていた平家の旧領であったからだろう(吾妻鏡元暦元年4月6日条)。その後,この所領は頼盛からその子光盛(円性),さらにその次女尼正縁房に伝領される(久我家文書/鎌遺3841)。鎌倉後期の正安元年,簗瀬郷住人右馬允・覚栄・覚賢・蓮住らが多勢を率いて山内の奈垣・比奈知両郷に乱入し,山畠の作毛を刈り取り山木を切るという事件が起こった。このため「六ケ山下三郷」地頭俣野寂一の代官安倍家景はこれら悪行人の召上と処罰を東大寺東南院に要求している(三国地誌)。その結末は不明であるが,当時の六箇山が上・下に分かれ,奈垣・比奈知両郷が下三郷に属していたことが知られる(今1つは滝原郷であろう)。またこの頃になると,郡内の土豪間の結合も進み,東大寺が「専一之悪党住彼領内」と指摘しているように,黒田荘悪党の縁者が山内の長瀬や上津江に居住していた(東大寺文書10,11/大日古)。建久3年8月日の伊勢神宮領注文と「神鳳鈔」には「多良牟六箇山」と見えるが,後者によれば,田地は53町5反,御饌調備料の箕・藤・黒葛の他に,三度御祭の御饌雑器料の正目檜や苧・麻布・紙等を神宮に備進することになっている(神宮雑書/鎌遺614)。室町期になると,山内各郷の分立が進み,下三郷は次第に神宮の支配から離れるが,上郷の布乃宇・多良・上津江は少なくとも16世紀後半まで神宮領として維持されたとみられる(享徳元年・大永6年・天文5年庁宣注文)。現在の名張市比奈知・滝之原・奈垣・布生(ふのう)から一志(いちし)郡美杉村太郎生,奈良県宇陀郡曽爾村・御杖村にかけての地域に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7129613 |





