分部町
【わけべちょう】

旧国名:伊勢
(近世~近代)江戸期~昭和47年の町名。江戸期は津城下の1町。町人地。城の東堀に沿って位置し,南は岩田橋,東は築地町に接する。地名は,分部氏に由来し,天正年間に分部光嘉が分部城を廃して上野城へ移った際に,町人が津に移り住んで成立したと考えられる(玉置覚書/津市史)。慶長5年の津城籠城戦で戦場となって焼失したが,藤堂高虎の城下町建設により再興。人数は,寛文5年614(男312・女302),同9年490(男253・女237),元禄14年312(男160・女152)。伊勢参宮街道沿いに位置し,宿屋の営業を許可される。課役は,伝馬出役77軒,伝馬所本役65軒などを勤める。ほかに勅使・祭主通行の際の付番2人を出すことや岩田橋掃除料が町会所から下されることがあった(明治3年町別課役取調書要領/津市史)。寛永年間岩田橋が架け換えられた際に,銅製の擬宝珠がつけられる。元禄11年の津町人分限帳には,塩野忠左衛門(1万両)以下13人の名が記されている。江戸大伝馬町に木綿問屋を出した川喜田久太夫の屋敷がある。戸数は,明治5年85,同17年91。明治9年の伊勢暴動では,参加者が岩田橋から地内まで入った。同22年津市に所属。明治22年頃,津市の元標が岩田橋北詰にたてられた。大正9年新岩田橋が岩田川上流寄りに架橋され,国道1号(現国道23号)が丸之内本町を通過するようになったため,分部町通りはメインルートからはずれて商店街となった。第2次大戦後も商店街として復興。町内には津八幡神社の祭礼の行事として300年の伝統をもつ唐人踊りが伝わる。昭和29年の世帯数40,以後の世帯数・人口は同36年41・210,同44年51・215。同47年東丸之内の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7130020 |





