檜物荘
【ひもののしょう】

旧国名:近江
(古代~中世)平安期から見える荘園名。甲賀郡のうち。野洲(やす)川流域に位置した。摂関家領荘園で,康平5年1月春日社祭の屯食3具を負担(康平記)。正治2年正月にも3具を納入(鎌遺1098)。長櫃・折敷・杓桶なども納進(執政所抄)。このような檜物を出す荘園であることから荘名が生じたのであろう。建長5年10月の「近衛家所領目録」では荘務権を近衛家が所有する諸荘の1つ(鎌遺7631)。その後地頭が設置されたようで,建治2年7月の「紀伊国阿氐河荘地頭湯浅宗親陳状」には,檜物荘の雑掌と同荘地頭の相論のことを引用している(高野山文書)。建武3年11月にも近衛家領荘園として確認できるが(陽明文庫所蔵文書),それまでに荘内に最勝光院領も成立していた。正中2年2月「最勝光院領注進状」に領家聖護院宮分として本年貢100石その他を納めるべきところ,近年未進が多いことを記す(東寺百合文書)。暦応4年閏4月松鶴なる人物が最勝光院領近江国湯次(ゆすき)荘・檜物荘,播磨国下揖保(しもいいぼの)荘・平井郷を合わせて20貫文で請け負った(東寺百合文書)。それまでに最勝光院領は東寺に寄進されていたが,当荘に対する東寺の支配は明らかでない。領家聖護院の支配は続き,「康正二年造内裏段銭并国役引付」には聖護院門跡領として檜物荘から1貫750文を上納(群類28)。当荘内には他領の入組みが多く,建武2年9月足利尊氏から当地の少菩提寺(しようぼだいじ)に寄進された部分もあった(荘園志料)。延文4年10月六角氏頼と仁木義長が当荘を争い,足利義詮は自派の仁木氏にこれを安堵した(蒲生郡志2)。至徳2年12月に足利義満は儀俄氏秀に当荘の下司田所職を安堵したが(蒲生文書50),これは聖護院門跡領であろうか。応永17年11月には荘内の「模(相カ)撲麹袋」が山門西塔院釈迦堂料所として見え(来迎寺文書/滋賀県史5),康正3年7月には荘内の平松村が大慈院領として見える(宮島文書/甲賀郡志)。当荘は石部から三雲(みくも)に至る野洲川南岸と菩提寺から岩根に至る北岸の両方にまたがり,一部蒲生(がもう)郡にも及ぶ。南北朝期以後長寿寺(東寺)付近が上荘,常楽寺(西寺)付近が下荘として見えるが,野洲川北岸一帯も下荘と呼ばれていたようである。甲賀郡内で檜物上荘の用例は長寿寺の1例だけなので,蒲生郡の方を上荘,甲賀郡の方を下荘とする説(日本地理志料)も否定できない。永禄元年から8年にかけて石部3郷と野洲川の引水をめぐって争った檜物下荘は野洲川北岸であったらしく,この事件を伴・山中・美濃部3氏の柏木三方中の判状を得て仲裁した近隣の衆は川の両岸に所在する柑子袋(こうじぶくろ)衆・夏見衆・岩根衆であった(山中文書・山本文書/滋賀県史5)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7134818 |