川岡村
【かわおかむら】

(近代)明治22年~昭和6年の葛野(かどの)郡の自治体名。牛ケ瀬・岡・川島・下津林の4か村が合併して成立。大字は旧村名を継承。葛野郡の最南端。西端に長岡(向日町)丘陵を負い,桂川中流域右岸の沖積平野部に展開する。東は桂川を隔てて紀伊(きい)郡吉祥院村に,南は乙訓(おとくに)郡久世(くぜ)村・向日(むこう)町に,西は同郡大枝村に,北は葛野郡松尾村・桂村に接する。東西約4.1km,南北約1.8kmの東西狭長の村域であり,地勢は西に高く,東南隅に向かって低い。面積4.087km(^2)。村名は山陰街道に沿う主村川島と岡の複合による。明治22年に農談会を設立,同24年村農会となり,同41年川岡信用購買組合(現川岡農協)となる。また同36年青年取締会,同38年青年教育会を経て,大正5年青年団を組織。婦人は明治37年母の会を経て,同39年婦人会を創設。同43年養老会,大正4年教育義会,同6年孝子会(江戸中期の孝子儀兵衛の遺徳をしのぶ)を設立。明治42年の高等小学校の再置と高等科に農業の加設,大正4年の村立農業補習学校,同6年の村立女子手芸学校をいずれも川岡尋常小学校に付設。また明治20年代他村に先がけ,ゴールデンメロン(ビール麦)の栽培が始まった。従来の裸麦などに比し反収のよい点(反当たり5~10斗増)から転作がひろがり,同29年には作人組合を結成し,大阪の朝日麦酒会社と特約を結ぶ。同39年に2,826石,1万6,360円余とピークを迎える。大正9年興産記念碑,同11年には興産会の結成を見る。こうした集約的多角的農業の進展の中で,明治30年には農林産物の罐詰・漬物加工販売の樫原物産合資会社,同37年川島に牛馬羊豚の常設家畜市場が開設された。同44年の主要農産物の作付反別と生産額は,米(粳米・糯米)214町余・5,295石・7万7,729円,麦(ゴールデンメロン・小麦・裸麦)189町余・4,311石・3万2,086円,蔬菜(甘藷・大根・葱・茄子・越瓜・胡瓜・白菜など)14町余・1万3,664貫・9,472円,筍・孟宗畑21町余・7万5,460貫・6,430円,竹材(若竹・淡竹・孟宗竹)28町余・5,317束・4,017円,梨3反・775貫・188円,罐詰9万4,207個・1万6,676円。運輸手段は馬車3(乗用2・荷積用1)・人力車14(1人乗12・2人乗2)・荷車263(大車56・小車207)・自転車15など計332両。また,職業別人口比率は農業70.5%・庶業19.8%・工業3.6%・商業8.0%,実数2,271人(川岡百年史)。昭和3年新京阪(現阪急)京都線・嵐山線が開通,村内に桂駅が開設され,従来の農村を変容させる一大契機となった。明治31年の戸数436・人口2,650,昭和5年の世帯数593・人口2,857。同6年京都市右京区の一部となり,村制時の4大字は95町に分離。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7138845 |