北野天満宮
【きたのてんまんぐう】

京都市上京(かみぎよう)区御前通今小路上ル馬喰町にある神社。旧官幣中社。二十二社の1つで,「二十二社註式」に祭神は菅丞相(菅原道真)とする。同じく中将殿,吉祥女を東西に配祀。九州の太宰府天満宮とともに全国の天神社の惣本社。道真は延喜元年藤原時平の讒言によって大宰府左遷を強いられ,その地で延喜3年に死亡。この怨霊の祟りが時平一門にとどまらず天皇および天下に及んだため,延長元年4月20日道真に正二位を追贈(日本紀略)。正暦4年5月20日に左大臣正一位,同年閏10月20日に太政大臣の位を贈った(政事要略)。「帝王編年記」天慶5年7月12日に「北野天神御垂跡西京辺」とあり,「北野縁起」にも天慶5年7月12日(前田家本北野縁起には13日とする)西京に住む多治比文子に対して道真の託宣があり,文子は5年間自宅近くに小祠を構えてこれを祀り,天暦元年6月9日には葛野(かどの)郡上林郷の北野に移したとする。「最鎮記文」は当地に近い朝日寺の僧最鎮が著したもので,それによれば最鎮は近江国高島郡の比良宮神官神良種とともに北野社を興し,天徳3年には右大臣藤原師輔の協力を得て殿舎を整えたとある。北野社は創立当初から宮寺の体裁を持ち,北野聖廟とも北野寺とも呼ばれていた(菅家御伝記)。寛弘元年には菅原氏の出身ということから,比叡山西塔の東尾坊坊主是算が北野社の別当職に任ぜられて曼殊院を称し,以後代々同院が別当職を相伝する。時代は下って南北朝期観応元年8月16日の太政官牒(曼殊院文書/大日料6-13),延文2年7月の「目安」(同前)にも,天慶5年の天神垂跡以来是算法橋以下21代の相伝を伝える。北野の地には,天慶5年の垂跡以前,承和3年2月1日に「為遣唐使祠天神地祇於北野也」(続日本後紀)とあり,菅原天神はこうした古神社(現在の摂社地主神といわれる)を基盤にしてあとから祀られるようになった。「二十二社註式」には永観2年6月29日の託宣に「我随身伴党十六万八千百余人也。捴含恨皆世貴賤雷鬼。皆悉集来」とあって,道真怨霊に先立つさまざまの御霊を吸収して天神信仰は急激な発展を遂げ,全国に広まった。天延元年3月13日「天満天神北野宮御在所并礼殿焼亡」(日本紀略)とあるのが史料上早い例に属する。永延元年8月5日には「始行北野聖廟祭祀」と勅祭に定められ,この時に「天満天神」が勅号とされたという(菅家御伝記)。正暦4年5月7日にはじめて奉幣があり(日本紀略),寛弘元年10月21日に天皇がはじめて行幸(同前)。社殿は創祀以後,天延元年3月の社殿焼亡にはじまり永延元年(百錬抄),長徳2年(日本紀略)などたびたび火禍にあっている。文暦元年2月14日の火災の時は「北野宮神殿,礼殿,小社廻廊払地焼亡。……於神輿并御正体等奉取出。朝日寺同焼亡」とあって全焼に近く,同年2月17日には「菅家長者大蔵卿為長卿給長門国」と菅原氏長者に造北野社役として長門国を知行せしめている。北野社の御霊神的性格は中世を通じても強く,別当曼殊院を媒介として比叡山衆徒はこれを利用し日吉社・祇園社のそれと一緒にたびたび神輿を振るって強訴に及んでいる(百錬抄,建久2年4月26日条)。鎌倉幕府との関係については,その追加法157条(仁治元年12月16日)に「一 諸社神人并神官等,令書起請文時,於他領社不可書由事。右於京都者,不嫌自社他社,於北野社可被書也」とし,京都の神人・神宮らが起請文をしたためるにあたって,北野社神前においてなさねばならないとし,当社の信仰的な権威を認めている。また室町期には,「看聞御記」応永32年2月28日条に将軍足利義量の早世に対し,この年正月華王院殿の夢に諸神が会合して将軍を見捨てたところ,「但北野未捨給之由被申」とのお告げをうけたとし,将軍家と北野との深い関係を示す。中世の当社の神人には織部司本座神人・酒役神人・御油神人・大座神人があった(北野文叢)。神人は当社の神供を献進する代わりに多くの商売上の特権を有して座を結成し,大座神人は京入口部での通行税,酒役神人は酒麹造りを独占的に掌握していた(北野神社文書)。神人への諸役免除の特権賦与は,すでに文永7年7月27日の後嵯峨上皇院宣(鎌遺10658)に鳥羽院堤役を平民と区別して神人に課さないと定めている。これに先立つ文永5年8月21日,北野末社の老松社の社内に荘家被官・散在神人が荘家を設けるのを禁止しているので,この頃には神人がかなり本社の直接支配から脱して,独自の行動をとっていることがわかる。応永26年10月3日には,室町幕府から洛中洛外の麹室の独占が認められたが,その旨を認めた酒屋の交名に342軒の酒屋が掲げられた(北野神社文書)。しかし文安元年には,こうした酒屋と北野神人との間に大規模な争いが起こり,比叡山西塔の衆徒を味方に入れた酒屋に対抗して,神人らは北野社に籠った。4月13日には「西京神人等令閉籠放火」したため北野社頭は炎上したという(武家年代記・康富記・建内記)。北野社領は古代においてはあまり明確でなく,天永元年11月20日の封戸寄文(朝野群載)に備後国・阿波国に各5烟が寄せられたとする。元永元年10月に能登国守藤原基頼は能登国羽咋郡内菅原保の田50町を寄進,以後全国に多数の北野社領荘園が成立した。長禄2年4月16日には足利義政により河内国8か所,同嶋頭荘など12か国40余の荘園が還付され,また寛正6年時の別当松梅院知行分として山城国池田荘以下,16か国37か所,同じく不知行分は25か所の荘園などがあげられている。もとより社領はこれにとどまらず,社領あるいはなんらかの支配関係にあるものとして「北野社家日記」に見える地名はほぼ全国に及んでいる。豊臣秀吉は朱印地602石を与え,この朱印額は江戸幕府にも継承された。また中世に引き続き曼殊院は北野社寺務職を認められるとともに,527石余を安堵されている(寛文朱印留)。北野天神は早くから学問・芸道の神ともされ,寛和2年の慶滋保胤願文(本朝文粋)に,「以其天神,為文道之視詩境之主也」とする。こうした伝説を受けて鎌倉・室町期には連歌会がたびたび催された(菟玖波集抄)。また天正15年に豊臣秀吉は北野社で大茶湯を催し,「北野大茶湯之記」によれば,この年10月1日から10日間を限り貴賤を問わず侘者(茶湯愛好者)は参加すべき由を高札に掲げている。現在行われる12月1日の献花祭はこれにちなんで始められたもの。北野の祭は「百錬抄」永承元年8月4日条に「北野祭,改五日為四日,依贈后御国忌他」と5日から4日に改められている。「政事要略」には「件天神会,雖非官祠,定日行会之内,又預官幣」とある。現在は8月4日に大祭が執行されている。慶長8年3月25日は出雲阿国が北野社頭で歌舞伎踊をはじめて興行し(阿国歌舞伎絵詞),これにより当社は歌舞伎発祥地といわれる。本殿周囲の透塀・平唐門・中門・東門は国重文。ほかに紙本著色北野天神縁起(国宝)など多数の文化財を所蔵している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7139205 |





