佐井佐里
【さいさがり】

旧国名:山城
(古代)条里の里名。再佐里(東寺百合文書メ)・斎佐里(東寺百合文書ヘ)とも書く。山城国紀伊郡12条に属する。伝九条尚経筆九条御領辺図に位置が示され(九条家文書3-652),現在の京都市南区唐橋経田町・西九条唐戸町などを中心とする地域で,東界は壬生通・京阪国道,西界は七本松通に相当する。北半部中央付近を九条大路が通り,それが千本通と交差するところに羅城門址がある。貞応2年12月18日の入道兼時田地売券に当該田地1反の在所が「左井佐里廿五坪」とあるのが初見(東寺百合文書ヒ/鎌遺3189)。ほぼ同時期のものと推定される山城国紀伊郡里々坪付帳には,里内の状況が詳細に図示されており,それによると中央西寄りを川が流れ,それに沿って6~7間幅の「作道」つまり鳥羽の作り道が南北に通じ,さらに中央東寄りにもう1筋の川があったこと,また30・31坪が東寺の垣内であったこと,その他の坪々には日吉田・女御田・稲荷社領・円融院田・左右馬寮田・平野社領・図書寮田・安楽寿院領その他の所領が入り組んで存在していたことが明らかである(九条家文書3-825)。下って長享2年2月26日の東寺領東西九条女御田年貢算用状では,10か坪にわたって2町3反240歩の荘田が存在したことが記されている(東寺百合文書わ)。なお,鎌倉中期~南北朝期の土地証文類から,3坪(現唐橋琵琶町内)に「木原」(東寺百合文書ヱ),7坪(現唐橋花園町内)に「花園」(東寺百合文書カ/鎌遺7456),25坪辺(現西九条豊田町・同高畠町内)に「判事田(はじでん)」(東寺百合文書ヒ),32・35坪辺(現西九条大国町・同豊田町内)に「兵庫田」(東寺百合文書ヱ)などの字名があり,室町期~戦国期の同種の史料により,10坪(現唐橋琵琶町・同経田町内)に「溝添」(九条家文書3-892),14坪(現唐橋芦辺町内)に「樋懸田」(東寺百合文書ツ),27坪(現西九条大国町内)に「大君」(東寺百合文書シ),36坪(現西九条豊田町・同高畠町内)に「ひわたし」(東寺百合文書ヱ)などの字名もあったことが判明する。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7140193 |





