朱雀大路
【すじゃくおおじ】

平安期に見える通り名。平安京の中心を南北に走る。「延喜式」に道幅28丈とある。平安京において大内裏の南正面,二条大路に面する朱雀門から南京極大路の中央羅城門に至り,羅城門以南は鳥羽の作り道につながっている。平安京は朱雀大路を中心にして東を左京,西を右京という。朱雀とは四方の星宿のうち南方にあたるもので,唐の都長安では皇城の正南門を朱雀門,そこから南方へ延びる大街を朱雀街などと,南方にあたるものに対して古くからつけられた。平安京の朱雀大路の両側には溝・犬行・垣があり,溝は5尺,犬行1丈5尺,垣の基底は6尺であった。現在の千本通の一条以南に該当する。平安京の中心線となるこの朱雀大路がどのような地理的条件に基づいてこの地に設定されたか,またその時期はいまだ定説はないが,次の2説が有力なものとして考えられている。1つは,朱雀大路を北に延長した所にある船岡山が,朱雀大路を設定する位置基準となったとする船岡山基準説,1つは朱雀大路が九条大路と交差する地点からさらに南へと延びる鳥羽の作り道を延長したという鳥羽の作り道延長説である。ただしこの場合は,作り道が平安京造営時よりも古くから存在していたという前提条件がつく。この2説のうち鳥羽の作り道延長説は,作り道が条里の畦道に重ならないこと,平城京において同様の位置関係にあった下ツ道ほど,重要性がないことなどによって,むしろ船岡山基準説の方が有力となっている。平安京のメインストリートである朱雀大路の両側には左・右京職,東・西鴻臚館などが配置され,路傍には柳が植えられ,そのため守朱雀樹4人(延喜式)が設置された。その風景は催馬楽にも「大路(朱雀大路)に 沿ひてのぼれる 青柳が花や 青柳が花や 青柳が撓ひを見れば 今さかりなりや 今さかりなりや」と歌われた。しかし実際の朱雀大路は,都市規模に比して大きすぎる道幅をもつため,道路として必ずしも有効に利用されていたとはいいがたく,貞観4年3月8日付の太政官符には「朱雀者両京之通道也。左右帯垣人居相隔,東西分坊門衛旡置,因茲昼為馬牛之闌
,夜為盗賊之淵府」とあり,朱雀大路が馬牛の放場や,盗賊の棲家となっていることが述べられている。この事実は,延長5年になった「延喜式」の左京職項にも記されており,催馬楽に歌われる朱雀大路の風景とはかなり異なった事実を示している。朱雀大路のこうした道路としての荒廃は田地化させる方向へと進んだ。「兵範記」仁安3年10月5日条に,朱雀大路の七条に至るまでの泥を掃除し,修理を加えるべきことが述べられ,それに続けて道路を侵奪して田畝を耕作することの禁止が記されている。この道路の田地化(巷所)は,すでに「延喜式」にも述べられていることであるが,少なくとも,平安末期には朱雀大路もそうした時勢の洗礼をうけており,「平安遺文」3653号文書には「八条朱雀巷所」と見えている。「東寺百合文書」には,主として七条以南の朱雀大路に面する巷所史料が散見され,この他,「針小路朱雀巷所」の名も知られる。以上のような朱雀大路の荒廃は,朱雀大路の南端に位置し,都の表玄関として偉容を誇っていた羅城門が天元3年に転倒し,再建されずに放置されていたことで,いっそう拍車をかけられたものと思われる。加えて,平安中期以降,平安京内において,右京の衰退と左京の繁栄という両極分化が進行し,また「池亭記」に見られるように自然条件や災害による条坊制の崩壊,加えて大内裏の機能自身がたび重なる炎上や,里内裏・後院への実権の移動によって失われ,左京と右京とを画する朱雀大路の存在も,もはやその意味を失ってしまった。しかし,往年の伝統と南に鳥羽口,北に長坂口と,京都と外部とを結ぶ交通の要衝をひかえ,この筋は西郊の南北縦貫路としての命脈を保っていた。室町期にはこの筋にも若干の酒屋の分布もみられる(北野神社文書)。朱雀大路が千本通と名を変えるのがいつ頃のことか確かなことはわからない。「太平記」巻36「清氏叛逆事」の条に「千本ヲ打過テ,長坂へ懸ル処ニテ」とあり,また「後愚昧記」康安元年9月23日条に「細川左馬助相従舎兄没落之処,自千本打帰而降参云々」とあるが,ここに述べられる千本は,現蓮台野付近を示す地名である。朱雀大路を北へ延長すれば,この蓮台野と結びつくことを考慮すると,もはや平安京のメインストリートでもなく,単なる郊外の一本道として朱雀大路の意味を失い,道路もその道が千本に結びつくところから,朱雀大路に代わる名称として,呼ばれるようになったのであろう。その時期については,室町期後半のことと考えられる。なお,朱雀大路以西の右京には,朱雀大路側から西に向かって西坊城小路・皇嘉門大路・西櫛笥小路・西大宮大路・西靱負小路・西堀川小路・野寺小路・道祖大路・宇多小路・馬代小路・恵止利小路・木辻大路・菖蒲小路・山小路・無差小路・西京極大路の16の大路・小路が存在した。しかしこれらの大路・小路は,右京が「池亭記」に「歴見東西二京,西京人家漸稀,殆幾幽墟矣,人者有去無来,屋者有壊無造」と語られたように早くから衰退したこともあり,その後この地域は洛外農村として歩んだため,1本の道路の歴史としてはほとんどかわらない。「掌中歴」も道路名は左京のみで右京には及んでいない。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7141648 |





