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神於寺
【こうのでら】


岸和田市神於町にある寺。天台宗。山号は布引山。本尊は大日如来。天武天皇の12年役小角(えんのおづぬ)による開創(神於寺縁起/岸和田市史6)。はじめ神於山は和泉海岸平野から望まれる神の山・神体山として信仰の対象となったとみられる。山名も神の尾根あるいは文字通り神の所在の峰とされたと思われ,東斜面山腹から流水文銅鐸(京都大学蔵)が出土している。奈良初期,金峰・熊野・宇佐・白山を勧請し,鎮守とした(同前)。奈良後期山岳仏教と神仏習合の興隆期にあたり,当寺は役小角開創の葛城系修験道を軸としながら,新羅の神である神宝勝権現を山頂如法が峰に招来し,上の権現と下宝社を開いた(同前)。宝亀5年百済僧光忍が当寺を中興。平安期の天長10年空海(弘法大師)が来山し,般若経を書写して東の尾根に奉納。よってここを般若の峰と名づけたという(同前)。この頃葛城修験とのかかわりを深め,平安後期から鎌倉期にかけて当山派(醍醐寺三宝院系)修験の山として知られ,「踏雲録事」(続々群12)では当山派36山の中に「神尾」として数えられている。また正応2年書写の「和泉国神名帳」(続群3上)に先述の上の権現・下宝社にあたるとされる神於如法社・神於社の名が見える。建長元年土生村地頭代の注進状内に当寺免田2反とある(岸和田市史6)が,その他の寺領は未詳。鎌倉末期にはしだいに衰退して,弘安2年勧進僧如海が惣門を建立しようとしたが完成せず,講堂・鐘楼・経蔵が荒廃したままになっていたという(神於寺縁起/同前)。南北朝期の観応元年7月には当寺に南朝方の武士が籠ったため,和泉国御家人淡輪助重によって攻められる(淡輪文書/大日料6‐13)。正平年間以来松尾寺(和泉市松尾寺町)と穴師堂(泉大津市我孫子,現廃寺)との間に和泉国惣講師職をめぐって相論が起きているが,当寺は穴師堂を援護した(穴師神社文書/岸和田市史6)。室町期の文明16年9月7日粉河寺・根来寺の行人らによって堂宇を焼き払われる(粉河寺旧記/大日料8‐16)。一方文亀2年8月には当寺衆徒が根来寺衆徒とともに九条家領の入山田荘に侵入し,翌月兵粮を日根野領家方百姓に要求(旅引付)。永正2年6月当寺が和泉国の守護両細川氏より入山田荘代官に任じられたと称したが,九条家家司信濃小路長盛がこれを不法として和泉守護代に訴えを起こした。同3年武蔵僧都良泉が戦乱で紛失していた当寺の法螺貝を堺松坊で入手し当寺に寄進(神於寺文書/岸和田市史6)。「拾遺泉州志」によれば,当寺領は五ケ畑を中心に形成されていたが,五ケ畑の地に根来寺末の根福寺建立によりこれを割譲し,永禄元年に当寺僧衆も根福寺に移住。不知行の五ケ畑をことごとく根福寺の寺領に付したというが明らかではない。天正5年織田信長の紀伊国雑賀攻め,同13年の羽柴秀吉の根来征伐で兵火に罹り,寺領は没収されて2院を残すのみになったという(大阪府史蹟名勝天然記念物4)。同19年岸和田城主小出秀政は供御田として荒田1町を寄進。文禄3年山林18万2,000坪が除地となる(同前)。江戸期に入り武蔵国江戸東叡山寛永寺の末寺となる(鬼洞泉州志)。寛文6年僧快恵が当寺の復興を祈願して「神於寺縁起」を書写(岸和田市史6)。歴代岸和田藩主により保護を受けるが旧観に復するまでには至らなかった(府誌5)。天保14年の「寺社覚」(鬼洞泉州志)に別当福智院・本堂のほか宝寿院・竹園院・三蔵院・吉祥院・中性院など15院,境内地約1万1,060坪・石高9石8斗9升余とある。また当寺鎮守として宝勝権現を含む五社権現が見え社山約18万2,000坪と記される。明治維新後は15院のうち2院を残すのみ。鎮守の宝勝権現は村社布引神社となり(府誌5),大正2年神社統合により河合村菅原神社に合祀され東葛城神社と改称。現在堂宇跡からは平安期以降の古瓦,青磁・陶器類が出土する。室町期瓦窯跡も確認されており,神於寺跡として市の文化財に指定。寺宝として松虫・鈴虫の鈴,前記の良泉より寄進された三国伝来という法螺貝を所蔵。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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