国分
【こくぶ】

旧国名:和泉
槇尾川上流域に位置する。地名は古代から中世にかけ和泉国国分寺が営まれていたことにちなむ。地内の福徳寺は,もと安楽寺といわれ和泉国国分寺とされていた。諸国の国分寺は天平13年3月聖武天皇の発願により設置されることになった。和泉国は天平宝字元年5月河内国から独立したが国分寺は創建されず,承和6年5月に和泉国から和泉郡内の安楽寺をもって国分寺とし,講師1人と僧10人を置くことが申請されており(続日本後紀),おそらくこれが和泉国国分寺の初見と思われる(和泉市史1)。「延喜式」玄蕃寮には「和泉国安楽寺」を国分寺とし僧10口を置くことが見え,同じく主税上には和泉国の正税として「国分寺料五千束」と見える。嘉承元年6月22日と天仁2年3月17日の珍為光申状によると,和泉郡池田郷末川嶋里・宮里に散在する田畠4町9反340歩や,同郷内大園田4反180歩は,和泉国守の外題により珍為光が作人であることと,加地子を国分寺に納入することが命ぜられた旨が記されているという(近衛家本知信記紙背文書/平遺1999)。延元2年11月日の岸和田治氏軍忠状案(和田文書/和泉市史1)に,「去八月四日夜,宮里城合戦之時於国分寺前,致合戦忠節」とあり,また10月19日にも「馳向国分寺・宮里并黒石等」と見える。また暦応2年6月日の安明寺置文には「一,国分寺涅槃会於造花者,為頭人之沙汰,年領(預)・住僧相共可為支配者也」とある。中世の池田郷に属する当地には光明皇后に関する伝説が多く,当地は光明皇后がシカを母として誕生した地といい,また薬師堂は智海上人の修行した寺で,上人の小便をなめたシカが懐妊しそれが光明皇后であったという。
【国分村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【国分(近代)】 明治22年~昭和31年の南池田町の大字名。
【国分町(近代)】 昭和31年~現在の和泉市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7149680 |





