寺田町①
【てらだちょう】

(近代)明治33年~現在の町名。大正14年までは天王寺を冠称。昭和56年から1~2丁目がある。はじめ南区,大正14年からは天王寺区の町名。もとは南区天王寺大字天王寺の一部。町名は四天王寺ゆかりの地であることによるというが不詳。東限の市道森之宮勝山線は難波宮城中軸線の延長上にあたって,難波京の朱雀大路の痕跡と推定され,その西側には265m(令大尺1,750尺)の方格街区が存在して藤原京式坊区画の痕跡も認められる。なお,当町はかつて百済野(くだらの)と呼ばれた上町台地東部の平坦面で,モモ畑が広がり晩春の頃は花見の宴でにぎわったという。大正10年市電霞町玉造線と市道都島阿倍野線が開通。また同12年に竣工した府道大阪奈良線(現国道25号)が当町にT字形に到達し,陸運の要衝を占めるに至り市街化が進んだ。昭和7年国鉄城東線(現国鉄大阪環状線)の高架化とともに寺田町駅を開設。第2次大戦で罹災したが,同24年興国学園,同25年寺田町公園開設など復興土地区画整理事業が進められた。大正12年一部が天王寺国分町・天王寺大道1~5丁目となる。昭和37年一部が大道1~5丁目となり,勝山通1~5丁目・大道1~5丁目・国分町の各一部を編入。同56年一部が勝山2~4丁目・国分町となり,大道1~5丁目・勝山通1~5丁目・北生野(きたいくの)町1丁目の各一部と南生野町1丁目を編入。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7151686 |





