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水無瀬神宮
【みなせじんぐう】


三島郡島本町広瀬3丁目にある神社。旧官幣大社。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇。明治以前は法華堂・御影堂と称していた。承久の乱により隠岐に配流となった後鳥羽上皇の暦仁2年2月9日の遺詔(後鳥羽上皇御手印置文,国宝)により,かつて近侍していた水無瀬信成・親成父子は,後鳥羽上皇の水無瀬離宮跡に堂を建てて,御手印置文と修明門院(後鳥羽院後宮)から寄進された2体の御影,すなわち隠岐配流前に藤原信実に描かせ生母七条院藤原殖子に残した俗体の御影(紙本著色後鳥羽天皇像,国宝)と隠岐においてみずから水鏡に写して描いたと伝える法体の御影を祀り,法華堂・御影堂と称し後生の菩提を弔ったのが当社の起源である。その後,後堀河・仲恭天皇の崩御,三浦義村の頓死,北条時房・泰時の死などがいずれも後鳥羽院の怨霊によるものと考えられるようになり,そのために所領の保護・寄進がなされている。たとえば永仁2年2月2日の伏見天皇綸旨(水無瀬神宮文書/島本町史史料編)に「摂津国水無瀬・井内両庄事,後鳥羽院暦仁御手印之趣,不可被召放之間,於井内庄者,御知行不可有相違之由,被申岩蔵宮候了」とあるように,伏見天皇から井内荘の知行相違なき由の綸旨が出され,後伏見上皇も院宣により水無瀬・井内荘については造住吉社段米を免除し,さらに文保2年2月11日には,後伏見上皇院宣(同前)に「熱田社領尾張国大腋郷古布矢梨子衾田,為後鳥羽院御影堂料所,可令知行給者」とあるように後伏見上皇は所領の寄進をしている。南北朝期になると天皇・武家による所領寄進などが相次ぎ,元弘3年11月12日には後醍醐天皇が蓮華王院領出雲国加賀荘・持田村の濫妨を止めさせ,建武3年11月16日には,光厳上皇が水無瀬・井内両荘の相伝知行相違なきようにとの院宣を下し,さらには足利尊氏が観応2年正月10日に願文を寄せ戦勝を祈願しているのをはじめとして,後村上天皇・後光厳上皇による所領の寄進,足利直義の安産祈願,尊氏・義詮・義満などによる天下静謐の祈願など枚挙にいとまがない(同前)。このような天皇・室町幕府による水無瀬御影堂に対する崇敬の裏には宗教的意味だけでなく,南北朝という時代を背景として当地が政治的・軍事的に重要視された結果とみなすことができる。また年月日未詳の後村上天皇宸翰御願文(同前)に「以水無瀬故宮跡,可建立大興禅寺事」とあるように後村上天皇は水無瀬宮跡に大興禅寺の建立を発願しているが,これは戦乱のため実現されずに終わっている。明応3年には後土御門天皇より神号・神門が贈進されたが子細あって返進したと伝える(水無瀬宮由来書)。以後も武家の崇敬が続き,永享6年9月2日の足利義教御判御教書(水無瀬神宮文書/島本町史史料編)に「天下安泰祈祷事,供僧等相共可抽精誠状,如件」と見え,天下安泰の祈願をしているほか,義政・義尚・義稙・義晴も同様の祈願をし,足利義晴・木沢長政・細川国慶・遊佐長教・細川晴元・三好長慶などは禁制を出して当宮を保護している。一方文人も「新古今集」の撰集を命じ連歌興隆の気運を作った後鳥羽上皇を追慕し,250年遠忌にあたる長享2年に連歌界の最高峰宗祇とその弟子の肖柏・宗長の3人が水無瀬御影堂法楽のために「何人百韻」(水無瀬三吟百韻)を作っているが,特に宗祇の「ゆきながら山本かすむ夕かな」という発句は「新古今集」の後鳥羽上皇の歌から本歌取りしたものとされ,後鳥羽上皇追慕の心を余情豊かに詠んでいる。近世になると徳川家康・秀忠の禁制が見られるが,それ以上に天皇家の崇敬が篤くなり,特に後水尾天皇は寛永15年に水無瀬御影堂での後鳥羽天皇400回忌法要に和歌を奉納し,後鳥羽天皇四百回忌御法楽短冊として今に伝えられ,愛好の茶室・灯心席を下賜し(国重文),以後450回忌・500回忌・550回忌・600回忌にはそれぞれ天皇・公家によって和歌が奉納され今に残る。水無瀬御影堂は文禄5年の大地震により倒壊し,慶長5年に宮中からの寄付により再興され(棟札),再び寛永8年に焼失したと伝える。被災後の再建は手間どり,社記には明正天皇在位期間中に内侍所を拝領したが自力で造立することができず,その後8,9年経過して後光明天皇在位期間中に後光明・後水尾・明正天皇,東福門院の寄進をうけ造営されたことを伝え,慶安2,3年頃に完成した。これが現在の本殿である。なお,本殿内陣中央に安置されている宮殿厨子は「天明七年五百五十回聖忌私記」の別紙「水無瀬御宮御奉加之事」に寛文7年5月に霊元・後水尾・明正・後西天皇,東福門院からの奉加によって造営されたことが知られる(島本町史)。一方,現在の客殿(国重文)は,慶長5年に福島正則造営・豊臣秀吉献納と伝えるが,客殿の建築手法,寛永8年の水無瀬殿焼失記事を考えると,慶長5年造立ではあまりに早すぎ,寛永8年の焼失直後の再建と推定される(島本町史)。明治維新までは仏法で追修してきたが,明治6年に初めて神社として官幣中社に列し,同時に土御門天皇の霊を阿波より,順徳天皇の霊を佐渡より迎えて合祀し,昭和3年に社殿のうち拝殿と渡殿が改築新造されている。昭和14年の後鳥羽上皇700年忌の際に官幣大社に昇格し,水無瀬神宮と改称した。俗に「さんやれ」といわれる松囃神事が正月3日夜に行われ,山本・粟辻両家により玉串の奉奠が行われる。両家は後鳥羽上皇の御影が隠岐から遷された時に供奉してきて,当地に居住したと伝えられる縁故により松囃神事にあずかるようになった。文化財としては上記の国宝・国重文をはじめとして,嘉禎3年の後鳥羽院御置文案文・後鳥羽院宸翰御消息(以上国重文)のほかに150通近い文書(水無瀬神宮文書)と,数多くの奉納和歌を所蔵する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7154064