滝安寺
【りゅうあんじ】

箕面(みのお)市箕面にある寺。「ろうあんじ」ともいう。単立(修験系)。箕面山吉祥院と号す。本尊は弁財天。「元亨釈書」によれば,役小角(えんのおづぬ)が摂津国箕面山にいた時箕面滝に入り竜樹(八宗祖師)に謁する夢を見たため,当寺を箕面山中に建立し箕面寺と号したという。平安期の応和2年金竜寺(高槻市成合,天台宗)の開山千観が当寺に止住し「法華三宗相対釈文」を撰集(扶桑略記)。奈良期から山岳修行の霊地とされ,「梁塵秘抄」(古典大系)にも「聖の住所は何処何処ぞ,箕面よ勝尾よ……」と歌われており,当寺および箕面滝は修験道場として知られた。「仁和寺御日次記」(続群29下)では,鎌倉初期建保2年6月26日京都御室の仁和寺(真言宗)の末寺となると記す。嘉禄元年1月18日建立以来はじめて堂宇を焼失(百練抄)。同年3月5日右馬頭が同寮の豊島牧から再建料20石を給出するよう命じている(滝安寺文書/鎌遺3352)。このころ寺領をめぐって当寺と豊島牧との間に争いが起きていたらしく,寛喜2年に記された「霊夢記」(箕面市史史料編1)に「彼の箕面寺御牧との相論,大王の挙を以て裁許を蒙る」とある。天福元年2月3日右少弁藤原経光が父前権中納言頼資(広橋氏の祖)とともに当寺を訪れた時の様子を「深山に霊窟あり,僧房等三百余房」と述べた(民経記)。嘉禎3年4月26日には翌年の将軍頼経の入洛に際し供養を修すよう御教書が下される(滝安寺文書/箕面市史史料編2)。また永仁2年5月9日には勘解由小路藤原兼仲が当寺に参詣しており(勘仲記/大成),幕府・公家の帰依の一端を示す。鎌倉末期元弘3年閏2月大塔宮護良親王より後醍醐天皇還幸祈祷の功を賞される(滝安寺文書/箕面市史史料編2)。そのため正慶2年閏2月赤松則村が武士の乱妨狼藉を停止する書状を出した(同前)。後醍醐天皇還幸後,現寺号を賜わる(大阪府史蹟名勝天然記念物2)が,従来の呼称箕面寺と併称される。南北朝期の永徳2年3月竜樹菩薩・弁財天女を安置する宝殿,鎮守社,宝塔,食堂,湯屋が完成し落慶法会を行っている(本朝文書)。室町期永享5年6代将軍義教の妻の邪気を払うため当寺僧が祈祷を行い(満済准后日記/続群補2),幕府からの帰依を受けるが,「雑事記」によれば,明応元年12月「箕山悉く焼失するを以て云々」と見える。その後の再建に関しては未詳。室町・戦国期を通して摂津国人衆の池田・荒木・薬師寺氏らより,寺領山林内での乱妨狼藉を停止する禁制を与えられるなど保護を受けた(滝安寺文書/箕面市史史料編2)。しかし,天正年間織田信長に焼かれ,堂宇・古記録のほとんどを焼失し僅かにその一部を残すのみ。文禄5年閏7月の震災で寺堂坊舎の全てが崩壊。江戸初期慶長8年当寺僧覚玄が勧進して現在地に再興し,天台宗園城寺(寺門派)末とされる(大阪府史蹟名勝天然記念物2)。この頃本尊の弁財天は近江国の竹生島・相模国の江の島・安芸国の厳島とともに日本四大弁財天に数えられた(摂津名所図会)。後水尾天皇が本尊に帰依し,明暦2年諸堂を再建。桜町天皇からも門を下賜される(大阪府史蹟名勝天然記念物2)。箕面滝と紅葉の景観もあり,四季を通じて参詣者が絶えなかったが,特に正月の修正会の時は施与される箕面富(牛王宝印札)を求める人々でにぎわったという。天保の幕政改革にあっても箕面富は禁止されることがなかった(箕面市史2)。明治期に入り寺領山林を上地。その一部が大阪府に払下げられ,同31年府立公園となる。翌32年4月の国有土地森林原野下戻法で寺領に復したため,改めて府へ売却。この頃現寺号が正称とされ,本山派聖護院(京都市左京区)より役僧の派遣をうけ現在に至る。寺宝として,地堂の木造如意輪観音坐像(国重文)などを所蔵。年中行事としては近世より続く富会(修正会)が1月7日に行われる。なお箕面山は国名勝。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7154863 |





