曽坂村
【そさかむら】

旧国名:播磨
(近世)江戸期~明治11年の村名。播磨国神東郡のうち。市川中流左岸付近,わずかに北西部が開いた山あいに位置する。地名の由来は,語源的には坂のある村の意味で山あいの村を示す地名か。姫路藩領。村高は,「正保郷帳」291石余うち田260石余・畑31石余,元禄2年の播磨壱国調帳(姫路城史)361石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに387石余。村高の増加は,江戸初期を中心としてその後も山麓などへの開発がたえず進められたことを物語っている。鎮守は式内社新次神社。「風土記」には多駝里邑曰野にあるという。幕末まで葛城権現と称したが,明治初年姫路藩が式内社とした。同社には1年間に新たに生まれた子供が母親とともに盛装して定紋入の提灯を持ち拝殿に着座し,白木平膳に素焼の平瓮三ケ白蒸(中央に栗1を入れる)などの膳を整える行事がある(神社調書/神崎郡誌)。水利は天水と溜池で用水には悩まされた。近世後期には畑地に綿を栽培し,姫路藩木綿(篠巻)専売の綿の産地であった。寛延2年藩領全域にわたる百姓一揆が起こった。明治11年御蔭村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7160077 |





