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桶井郷
【おけいのごう】


旧国名:大和

(中世)鎌倉期から見える郷名。奈良のうち。大乗院門跡郷(寄郷)。大乗院門跡鎮守天満社の小五月会に役銭を出す小五月郷の1つ。「中臣祐春記」正応3年5月1日条に「今日,桶井郷少童部,小五月シテ参社」,同6日条に「郷民小五月参……次桶井」とあり,小五月会に伴う当郷民の田楽踊りが春日若宮に社参している(春日社記録3)。鎌倉期には当郷住人として興福寺僧相模公・春日社神人国次・憲玄法橋らが見える(中臣祐賢記文永10年2月5日条・中臣祐春記弘安6年12月13日条・同27日条/春日社記録2・3)。南北朝期の文和3年閏10月には「御領内桶井郷民住屋」を大乗院門跡が,博奕の罪で検断することがあった(大乗院奉行引付/成簣堂大乗院文書)。また,室町期には興福寺南円堂鐘の永享8年4月14日付銘文によれば「桶井六郎次郎」という者が同鐘を興福寺菩提院に施入している(日本古鐘銘集成)。「寺社雑事記」文明2年8月7日条に「東西桶井郷・川上・南鵲等相催之,寺番匠・寺鍛冶等悉以罷出了」とあるのに徴せば,郷内には番匠・鍛冶などの職人も居住した。また金春座与次郎ら芸能者も住んだという(寺社雑事記長享3年8月10日条)。鎌倉末期~南北朝期頃には東・西2郷に分かれた。福知院郷・十輪院郷の南,川上郷の北方に東西に延びる街区で,東は辰巳少路,西は薬師堂郷で区切られる(天理図書館所蔵小五月郷指図写/日本荘園絵図聚影3)。①東桶井郷。元福3年2月日付家地買取状に「東涌(桶)井家地」とあり,その在所を「大和国添上郡元興寺東郷十輪院之間」としている(元興寺観音堂懸板記録/奈良坊目拙解)。また「寺院細々引付」応永11年正月3日条には「川上ハ北ノ頬当門跡御領,東桶井ノ寄郷云々」とあり,当郷南方に接する川上郷の北側を寄郷とする(内閣大乗院文書/大日料7‐6)。ついで「寺社雑事記」長禄4年閏9月17日条には「東桶井……以上御領内」と見えて,大乗院門跡が地口銭賦課のために当郷などの間数改めを実施した。地口銭のほか門跡からは公事夫役も懸けられたが,寛正6年から20年間は「桶井両郷」すなわち東西桶井郷の公事は二季大掃除役を除いて免除された(寺社雑事記寛正6年12月4日条)。文明2年には「東桶井郷」の小屋2宇が炎上したという(同前文明2年9月23日条)。正長元年の領内間別銭納帳によれば間数27間1尺5寸(同前長禄4年閏9月26日条),大永5年御領内元興寺領地口銭帳では合計32間半であるが,約半分は畠地であり,中院・毘沙門・脇戸・福智院・高御門など諸郷住人の領知となっていた(内閣大乗院文書)。現在の奈良市十輪院畑町に当たる(天理図書館所蔵小五月郷指図写/日本荘園絵図聚影3,条里復原図)。②西桶井郷。南市観音堂の点札に記されていたという至徳2年正月29日付丹三売券には畠地1段の在所として「西桶井北ノツラ,丹三殿せ戸,口九間」とある。畠の東西両側は中垣で南は家であったというから,街路に沿って並んだ家屋の背後に畠が開かれていた有様がうかがわれよう(寺社雑事記文明2年12月7日条)。「寺社雑事記」長禄4年閏9月17日条には「西桶井……以上御領内」とあり,大乗院門跡が地口銭賦課のための間数改めを行っている。正長元年領内間別銭納帳によれば間数31間6尺(同前長禄4年閏9月26日条),大永5年御領内元興寺領地口銭帳では間数合計32間であるが,東桶井と同じく畠地が多く11間余を占め,辰巳辻子・十輪院ほか諸郷住人が耕作している(内閣大乗院文書)。また元亀3年小五月郷間別改打帳では間数合計54間4尺うち37間余が畠であり,郷の西方北側には茶屋・桶屋を営むものの屋敷があった(同前)。なお西桶井郷から南の川上郷へ向けて「今辻子」という突き抜けの小路が通っている(天理図書館所蔵小五月郷指図写/日本荘園絵図聚影3)。現在の奈良市十輪院町の西部付近を指す(同前・条里復原図)。




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「角川日本地名大辞典」
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