兼殿荘
【けんのとののしょう】

旧国名:大和
(中世)平安末期~室町期に見える荘園名。平群(へぐり)郡のうち。一乗院門跡領。「簡要類聚鈔」第1に「兼殿」とあり,一乗院門跡根本12か所御領の1つ。年貢は門跡の年中行事に充てられ,人夫・伝馬以下の万雑公事を勤仕した。当荘は少なくとも平安末期まで遡り,承安5年3月28日付東大寺花厳会饗前支配状案(東大寺文書/平遺3676)によれば内平群東条3里20坪の東大寺花厳会饗免田を「兼殿」の入田と称して当荘司智暹が押領したという。鎌倉初期頃には東大寺花厳会饗前料所の成重小荘(兼殿尊勢名)を併せて,荘田を拡大するようになったらしい(興福寺文書/鎌遺15590)。また,この頃には「兼殿御庄百姓」で東大寺領下吐田荘花厳会免田を兼作する者がおり(東大寺文書延応2年3月18日付兼殿荘下司沙弥乗蓮請文/鎌遺5538),また東大寺領上土田荘領買主田作人等交名(東南院文書3/大日古)によれば「藤平〈住兼殿〉」「刀禰〈住兼殿〉」「宗検校〈住兼殿〉」など,当荘の住人が見えている。正治2年(弘安8年写)の維摩会不足米餅等定(興福寺文書/鎌遺15590)に一乗院別符荘として「兼米一石〈兼殿庄之内〉餅四十枚」「成重北(小)庄五斗〈兼殿庄之内〉餅二十枚」とあり,興福寺維摩会の用途を負担した。次いで応永34年の一乗院昭円講師段銭納状(天理図書館所蔵文書)には「一,十二ケ所庄分事兼殿庄〈三十丁八反三百十歩,廿三貫三十文納之〉」,応安7年の一乗院良昭受戒用途職人并荘々催状(同前)には「兼殿下司〈二貫文〉」と門跡から用銭などを賦課された。当地は一乗院門跡坊人の国民兼殿庄屋氏の本拠地。同氏は門跡から当荘下司職田1町2段30歩,公事名・自名1町6段の御米(年貢米)のほか,牛飼料毎月300文を恩給された(応永27年一乗院方坊人用銭支配状/天理図書館所蔵文書)。また平野殿荘の国民曽歩々々氏は当荘下司職田2町4段60歩を有し,国民桐谷氏も当荘御米18石・口米3石7斗を門跡から給与されている(同前)。なお応永3年4月2日付大井老尼善心知行分田畠注文(東寺百合文書ワ)にも「一所一反フシハラノ岩ハコ,ケンノトノ御領」と見える。遺称地はなく,比定地は未詳であるが,平群郡内平群東条3里20坪,4里6坪,同中条4里25坪が兼殿領であったといい,現在の平群町吉新・梨本付近に位置したものらしい(東大寺文書/平遺3676・鎌遺2390)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7166758 |





