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芝新屋町
【しばのしんやちょう】


旧国名:大和

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は奈良町の1町。南方触口支配に属する。江戸期は奈良町の南部,中新屋町の南東に位置する南北通りの街区。地名の由来は,「奈良坊目拙解」によると,宝徳3年の火災で焼失した元興寺境内跡が芝原となり,そこに民家が建ったため芝新屋と名付けられ,当所西側は食堂の跡,鐘楼の旧蹟であるという。当町は元興寺町もしくは御霊前町から辻子として発展したと考えられる。「奈良坊目拙解」には天正年間~永禄年間に民家が建ち,やがて町家となったと記される。慶長7年屋敷御検地帳には,4反4畝19歩,分米25石余,銀子にして368匁余とあり,屋敷数26,屋敷とも畑とも記載のないものが4,それに表4間・奥10間の会所が見える(大和名勝志)。寛永8年の役家21(奈良市史通史3)。貞享4年「奈良曝」には町役21軒とあり,加賀絈問屋の喜兵衛,油屋の与次兵衛,薬屋の山田屋八郎兵衛,髪結の彦四郎の名が見える。元禄2年の家数24うち号所1(興福寺仕丁),竈数24うち大家16・借家8(奈良惣町中諸事覚帳)。宝永年間町代高木又兵衛諸事控には,薬種屋の山田八郎右衛門,質屋の素麺屋新六が知られる(県立図書館藤田文庫)。享保14年の役家数21,家数28うち号所2(興福寺衆徒・同仕丁),竈数21うち大家16・借家5(奈良佐良志)。慶長7年当町に残る観音堂を中心とする元興寺に対して,徳川家康から添上郡肘塚(かいのづか)村・法華寺村内に50石の寺領が与えられた(大和名勝志)。「奈良坊目拙解」によると,同寺は真言宗東大寺堂衆支配で,安政6年に堂塔が焼失し,五重塔はついに再建されなかった(元興寺編年史料下)。「南都年中行事」によると,薬師堂町の御霊社の氏子区域。明治17年の「大和名勝豪商案内記」には,清水堂墨製造所の隅山利八の名が見える。同22年奈良町,同31年からは奈良市に所属。同32年木奥由松は南京苧を平横打し,古都織襖地と称し大阪へ特約販売,翌年綿糸を用いた春日布を製造。昭和13年の世帯数28。世帯数・人口は,同45年27・103,同55年22・75。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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