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小河内郷
【おごうちのごう】


旧国名:紀伊

(中世)鎌倉期~室町期に見える郷名。伊都(いと)郡天野社領六箇七郷のうち。「こがわち」と読むとも考えられ,読み方については不明。初見は弘安6年のものと推定される5月28日付の開田准后法助書状案。このころ伊都郡相賀荘(橋本市)の下司坂上氏と高野山との間で起こった天野社に貢進する神馬の進止権をめぐる相論について,仁和寺開田院の法助が折中案を示し裁定を図っている。先の書状には「又小河内間事,当時訴陳最中,是非落居之後,可成敗候」と見え,当郷をめぐる問題も生じていたことがわかる(高野山文書/大日古1-2)。嘉元2年2月24日の孝良寺村国安田地売券に「小河内孝(教)良寺村」と見え(同前1-3),応永26年9月の段銭棟別納日記には「小河内棟別〈六十二間之分〉……山崎廿三間 教良寺十九間 皮張十一間 平奴田九間」とあることから(同前1-5),中世には当郷に山崎・教良寺・皮張・平沼田(ひらんた)の各村が含まれていたことがわかる。鎌倉期の正中2年6月14日の丹生(か)経光申状写によれば,小河内郷雑掌が天野社神人等の作麦を刈り取ったり,田畠を点定するなどの行為に及んだため,毎月晦日に行われる大神事が実施できなかった旨が記されている(丹生古文書/ヒストリア102)。正平17年7月6日の高野山大集会評定事書案には,高野山の中院と谷上とが荘園の分配をめぐって相論を起こし,改めて高野山四箇院に荘園が分配され,「西院 相賀 長谷 小河内」とあるように当郷は西院領となった(飛見家文書/県史中世2)。その後,応永25年4月8日の高野山領神馬貢進注文には「小河内郷……壱貫文 裸馬一疋 刀禰」と見え,当郷は裸馬1匹分にあたる1貫文を負担していたことがわかる(高野山文書/大日古1-4)。また同30年のものと推定される2月27日の四郷以下公方役書上には「小河内分」の前年1月から翌年2月までの守護課役が列記されており,小河内百姓等は課役の軽減を高野山に訴えている(同前1-8)。同32年4月25日の天野社一切経会段米納日記によれば,当郷は六箇七郷内として2斗6升5合6勺の天野社一切経会段米を負担していた(同前1-4)。文安2年6月2日の天野社鐘楼修理料足勘録状には,当郷が夫伝馬料650文を高野山に納め,高野山はこれを天野社鐘楼修理費の一部としたことが見える(勧学院文書/かつらぎ町史)。また長禄元年11月27日の山王院二御殿并惣社上葺勘録状には「諸庄々官引馬料足納分」として「三百六十九文 小河内郷庄官中」と見え,山王院の御殿と惣社の造営にあたって当郷の荘官が369文の引馬料を負担したことがわかる(高野山文書/大日古1-4)。当郷は,先の応永26年9月の段銭棟別納日記から,現在のかつらぎ町山崎・教良寺・宮本・平沼田一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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