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海草郡
【かいそうぐん】


(近代)明治29年~現在の郡名。名草(なぐさ)郡29か村と海部(あま)郡13か村が合併して成立。明治29年黒江村,日方村が町制施行,同32年和歌村が和歌浦町となり,大正10年には内海(うつみ)村が町制を施行した。また和歌山市も人口集中により人家が増加して隣接地にひろがるにともない,周辺部の村々の合併が行われ,大正10年湊村の一部,昭和2年雑賀(さいか)村・宮村,同8年には鳴神村・四箇郷村・中ノ島村・岡町村・和歌浦町・雑賀崎村・宮前村の1町6か村が和歌山市に合併した。同10年紀三井寺村が町制施行し,同13年浜中村が下津町となる。同15年紀三井寺町および湊・野崎・三田の3か村が,同17年には松江・木ノ本・貴志・楠見の4か村が和歌山市に合併した。こうした合併による市域拡張は和歌山市の産業の振興にともなう都市計画と深い関係がある。明治初期から綿ネル業が地場産業として発達したのは,明治初年の兵制改革にあたり,紋羽織が軍服に採用されたことが契機となっている。それに関連して,紡績・織布・捺染・染料などの工業も盛んになり,和歌山市内に多くの工場が設立された。これらのうち捺染関係の工場が和歌川・大門川流域にも建設される大正期~昭和初期に流域の諸村が和歌山市に合併した。明治31年紀和鉄道(国鉄和歌山線)が和歌山と船戸(岩出町)間に,南海鉄道(南海電鉄)が難波~和歌山北口間に開通し,5年後には和歌山市駅まで通じた。加太軽便鉄道(南海電鉄)は明治45年に加太~和歌山北口間が開通し,3年後和歌山市駅に達した。山東軽便鉄道(南海電鉄)は,大正5年に宮村大橋より西山東村伊太祈曽(いだきそ)まで開通したが,大正13年におりから紀勢西線の設置により,新設された東和歌山駅(和歌山駅)の構内に山東軽便鉄道の始発駅が設置された。紀勢西線和歌山~箕島駅間の開通は大正13年,阪和電鉄(昭和19年国鉄に合併)が天王寺~東和歌山間を走るようになったのは昭和5年である。和歌山市を基点とした鉄道の発達に伴い和歌山市の近代化が進み近代産業が着実に定着していくが,その周辺部にある当郡のうける影響は大きかった。大正7年竜王木材工業は下津湾に進出した。同社は明治44年に廃止されていた方浜塩田跡とそれに続く水域も購入して広大な貯木場を設けた。当時和歌山港には大型船舶が入港できなかったので,それにかわる下津港を開発した。港ができると,北洋材・樺太材が移入され小漁村であった下津湾の様相は一変した。和歌山市では綿製品の生産が伸びていたが,その梱包用の木箱の用材に利用した。綿製品は国内市場はもとより中国大陸へも大量に輸出され用材の需要が増加していた。和歌山市や当郡には小規模な製材業工場が多くできた。大正期の和歌山の労働運動の高揚は,木材関係の労働者によるところが大きい。昭和初年の全国的な不景気は和歌山県も例外ではなく,主産業である綿工業にも徴候があらわれ,それが関連する産業にも影響してきた。打開策として昭和10年前後から紀ノ川河口付近の川岸の整備と和歌山港の修築や下津港の再開発などが発案された。巨大工場誘致による大和歌山の都市計画が生まれたが,満州事変以来昭和10年代にかけて急速な重化学工業化をすすめる国策とも合致したものであった。昭和12年の丸善石油会社の下津港誘致や同15年の住友金属工業の紀ノ川河口北岸への誘致など巨大工場の進出が決定された。軍需工場の誘致政策の強行は,地元住民とさまざまな紛争をおこしたが,軍部と警察権力の介入もあってすすめられていった。こうした工場誘致と不可分の関係にあるのが,当郡内にある紀ノ川北岸の諸村の和歌山市合併であり,下津町の誕生であった。ついで椒(はじかみ)村にも東亜燃料会社が設立され,紀北の臨海工業地帯が形成された。昭和9年に黒江・日方・内海の3町と大野村が合併して海南市が成立して当郡から分離した。江戸期以来の伝統産業である漆器産業に,明治期以降海岸を埋め立て紡績業を導入し,また化学染料産業も興して市勢を発展させた。旧那賀郡域に入っていた野上谷は,元来海南方面との結びつきが深かったが,野上谷のシュロ産物の輸送を目的に,大正2年野上鉄道が開通されるとより密接になった。昭和26年那賀郡域の東野上町と中野上・南野上・北野上・志賀野・小川・下神野・上神野・国吉(猿川村が改称)・長谷毛原・真国・細野の11か村が当郡に編入された。同28年椒村が初島町となり,大崎村が町制施行,同29年西脇野村が西脇町となる。同30年には西和佐・岡崎の2か村が,同31年には西脇町と安原・東山東・西山東・和佐の4か村が,同33年には加太町と直川(のうがわ)・有功(いさお)・川永・小倉の4か村が,同34年には紀伊・山口の2か村がそれぞれ和歌山市に編入し,旧名草郡全域が和歌山市に含まれた。昭和30年には亀川・巽・中野上・北野上・南野上の5か村が海南市に合併,下津町・大崎町・仁義(にんぎ)村・塩津村・加茂村の2町3か村が合併して下津町に,東野上町・志賀野村・小川村が合併して野上町,下神野・上神野・国吉・長谷毛原・真国の貴志川上流域の5か村が合併して美里町が成立した。同32年には美里町に細野村の一部を編入。同37年初島町は有田市に編入し当郡から離れた。当郡は海南市によって下津町と野上町・美里町の2地域に分離された。明治42年の戸数2万2,462・人口13万3,531。世帯数・人口は,大正9年3万1,020・14万7,214,昭和25年1万6,835・7万9,098。




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「角川日本地名大辞典」
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