九番丁
【きゅうばんちょう】

(近代)明治5年~現在の町名。江戸期は丸の内とも呼ばれた城内三の丸上級武家地。明治2~4年にかけて三の丸武家地は藩に返還され,区画整理をして明治5年一番丁から十三番丁の町名が付けられた。明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる。九番丁は和歌山城の北部に位置し,七番丁の北部に接する。東は十番丁,西は八番丁,北は十二番丁。幕末には東西に走る道路をはさんで,北側に東から家老安藤飛騨守(1万5,000石)・寄合海野竜次郎(1,300石)・評定所・五十人頭上野七大夫(200石),南側に東から大寄合松平六郎右衛門(1,200石)・成田城之助・大寄合格津田兵部右衛門(800石)・御小姓組番頭田宮儀右衛門(600石)・御用人富永平十郎(700石)・御勘定奉行垣屋十郎兵衛(900石)の屋敷が並んでいた(安政城下町図)。明治5年武家屋敷地は競売で民間に払い下げられた。同9年本町6丁目から移転してきた私立英学校自修学校は,同17年八番丁の徳義学校と合併して徳修学校と改称,同27年再び徳義学校と改称して当町に移り,同33年県立に移管して和歌山県第一中学校徳義分校となり,翌34年撞木丁へ新築移転して県立徳義中学校となった。なお徳義学校は明治16年徳義社が設立。徳義社は明治10年旧藩主徳川茂承の醵出金によって困窮士族の救済と士族子弟の奨学を目的とし設立され,同12年会所を新築,大正8年まで活動した。明治20年創立の市立和歌山幼稚園は,同25年和歌山高等小学校が男女2校に分離されるに及んで設立された和歌山女子高等小学校の付設施設となり,同36年独立,同44年当町に移転,昭和7年岡山へ移った。また明治25年設立の女子高等小学校は,再び同45年男子校と合併,和歌山高等小学校と称し,当町に移った。明治37年市立和歌山商業学校が設立され,同43年東坂ノ上丁へ移転した。明治41年市立和歌山裁縫女学校が設立され,大正元年市立和歌山実科高等女学校,昭和3年市立第一高等女学校と改称,同9年廃校し太田へ市立和歌山市高等女学校を新設した。同年市立診療院が八番丁から移転,同12年市民病院と改称,同20年県立医学専門学校設立に際し付属病院に充当したが,空襲で焼失した。また同22年吹上小学校・和歌山工業学校で分散授業を続けていた虎伏中学校が移転してきた。明治6年には戸数・人口ともになし。大正2年93戸・382人。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7171309 |





