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熊野那智大社
【くまのなちたいしゃ】


東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町那智山にある神社。旧官幣中社。祭神は第四殿(西御前)に祀る熊野夫須美大神を主神として,第一殿(滝宮)に大己貴命,第二殿(証誠殿)に家都御子大神,第三殿(中御前)に御子速玉大神,第五殿(若宮)に天照大神を祀る。第五殿の向かって左側に八社殿があり,禅師宮・聖宮・児宮・子守宮・一万宮十万宮・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛が合祀されている。第一殿の滝宮を除くと熊野十二所権現として,熊野本宮大社(本宮(ほんぐう)町)・熊野速玉大社(新宮市)と同じ権現数だが,那智のみ十三所権現と呼んだ。滝宮は那智大滝の神を祀るもので,大滝の拝所には別宮として飛滝神社がある。当社は熊野三山の1つで,那智さんと呼び親しまれており,全国熊野信仰の一中心である。平安期から近世に至るまで,熊野信仰の中でも特に修験の霊場として,本宮・新宮とは趣を異にして発展してきた。その理由は,当社がもともと那智大滝を滝修行の場とし,また那智山のうちの妙法山を神体山とする霊地であったことに起因する。創祀は,「熊野山略記」には仁徳天皇の時,内裏に神変を現して十二社壇がこの地に勧請創建されたとする(熊野那智5)。また同記に,孝昭天皇53年,裸形上人が新宮から那智に向かい,那智錦浦で沐浴していたところ,千手千眼観音が光を発して上人を滝本(那智大滝のふもと)に導いたので,上人は熊野権現の垂跡を知ったとある。裸形ののち,空勝・朗善が13社殿を造立し,当社が開かれたという。当社が本宮・新宮とともに熊野三山の1つとなった時期は未詳だが,永保3年9月4日付熊野本宮別当三綱大衆等解に「長背三所権現之護持,因茲満山大衆巻舌箝口」とあって,本宮・新宮・那智の三所権現が成立していたとする説がある(熊野御幸略記/県史古代1)。ただ三所権現が本宮一所と新宮二所の総称とすれば,このころまだ那智は一所とされていなかったことになる。「長寛勘文」所収の熊野権現御垂跡縁起にも,熊野三所権現は「一社を証誠大菩薩と申,今二枚月をば両所権現となむ申」とあって,本宮一所・新宮二所とされていた。「長寛勘文」の他の部分でも,那智に対しては何ら注意が向けられておらず,12世紀になっても熊野三山は体制的に確立していなかった。当社の主神熊野夫須美(牟須美,結とも)神は,「新抄格勅符抄」所収大同元年牒に「熊野牟須美神 四戸〈紀伊,天平神護二年奉充〉」「速玉神 四戸〈紀伊,神護二年九月廿四日奉充〉」と見え,この時点では新宮速玉神と並祀されていたとも考えられるが,「熊野牟須美神」を本宮に,ないしは新宮の相殿神に比定する説もある。おそらく,平安中・末期に至る熊野信仰の隆盛にともない,新宮地域と海岸線を接する那智の地がもともと滝修行や妙法山での修験僧等の霊地であったため,新宮の神のうち一所を移して那智の神とし,熊野三山が完成されたのであろう。当社は他の2社に比べて神仏習合の色彩が濃厚であり,熊野への合併以前から修験的要素が強かったと思われ,中世熊野修験勢力が特に当社で盛んであった原因もそこにあった。「中右記」天仁2年10月27日条で,筆者藤原宗忠は新宮の海浜を経て那智に向かっている。まず,大久之・小久之の山を越えて補陀洛浜の浜の宮王子(大神社,那智勝浦町)に参った。この地は,補陀洛渡海という那智山だけが有する特異な宗教的行為の伝承地である。補陀洛渡海は,観音菩薩の浄土である補陀洛山に生身のまま成仏するというもので,浜の宮王子と補陀洛山寺前の海浜から船に乗り込み,沖に漕ぎ出して入水した。補陀洛山寺の歴代住職は渡海上人と呼ばれ,代々これを行ったが,それに同行する世俗の渡海者も多く「那智山書上ケ帳」には,平安期から江戸期に至る20数度,100数十人の渡海者が記録されている(那智勝浦町史)。この他にも,「平家物語」巻10では平維盛が濱宮から渡海したと記し,「吾妻鏡」天福元年5月27日条では源頼朝家臣下河辺行秀が那智浦から渡海している。補陀洛渡海の信仰を背景にして,当社は日本有数の観音霊場となり,平安期以降西国三十三か所観音霊場の第1番札所となった。「塵添壒嚢鈔」所収久安6年の長谷僧正参詣之次第では,那智如意輪堂(青岸渡寺の前身)が第1番,飛滝権現の本地仏を祀る千手堂が第2番とされている(仏教全書150)。先の「中右記」で宗忠は当社の証誠殿および両所権現に奉幣したのち,「如意輪の験所」で経供養を行っている。平安期から鎌倉期にかけ,白河・鳥羽・後白河・後鳥羽各上皇がたびたび熊野参詣を行った。白河上皇による寛治4年1月の参詣以降,院・公家の熊野詣ではますますさかんとなり,「続風土記」によれば後白河上皇21度,後鳥羽上皇23度などと記され,およそ100年余の間に100度にあまる参詣があった。建仁元年10月に実施された後鳥羽上皇の参詣記録「明月記」によれば,往復の日程は22日間,12日目に本宮に至り,14日目に新宮,15日目には那智に奉幣し滝殿(飛滝神社)に詣でている。院の参詣も,亀山上皇による弘安4年を最後に行われなくなった(一代要記)。院・公家に代わって武士・庶民による熊野詣でが盛行するようになるのも鎌倉期以降である。院・公家・武家による熊野信仰の隆盛にともなって,三山に対する社領寄進も飛躍的に増加する。この場合,熊野三山全体に寄進されるものと,本宮・新宮・那智おのおのに寄付されるものとがあった。那智に対しては承久3年3月に後鳥羽上皇が滝本御油料所として寄進した尾張国牛野荘をはじめとして,美作・周防・紀伊および駿河・遠江など各地が寄進された。特に戦国期に駿河・遠江を領した今川氏による実報院への社領寄進が目立っている。那智山には,いわゆる神官は置かれず,すべて衆徒と行人によって構成されていたといわれる(続風土記)。一山の組織は,「続風土記」によれば社僧が東座と西座にわかれていた。古来東座の執行を相承していたのが潮崎尊勝院とされ,これは滝執行とも称し,滝衆(滝聖)と呼ばれる一団を統轄支配していた。塩崎氏は,平頼盛の末孫と称し塩崎の領主であったという(同前)。西座の執行については未詳だが,もと西仙滝院が相承し,江戸期に至って米良実報院(十方院)が引き継いだとされる。西仙滝院については不明な点が多いが,「続風土記」によれば永禄のころに伊勢多気の一族のうち良清法印が開いたとされ,代々清僧で真言宗であった。米良実報院は室町期以前からすでに有力な御師家であり,高坊とも称していた。実方院・実法院・十方院とも書き,米良氏を称した。寛永6年9月日付熊野那智山衣体定書によれば,東西両執行の下に,宿老10人・講誦12人・衆徒75人・滝衆66人・如法道場役人12人・行人85人・穀屋7人があって(米良文書/熊野那智4),これらの社僧・役人は那智三十六坊が出していた。那智三十六坊は中世から近世にかけてはかなりの異動があったと見られるが,天保5年に写された「諸国檀那分ケ限」によると,尊勝院・仙竜院・宝仙坊・宝春坊・真度坊・光明坊・円明坊・実方院・神光坊・真覚坊・宝蔵坊・竜寿坊・宝如坊・明楽坊・大蔵坊・宝蔵院・吉祥坊・橋爪坊・大乗坊・実仙坊・宝隆坊・春光坊・宝祥坊・宝元坊・滝庵坊・那智阿弥大禅院・御前庵主・理性院・浄厳坊・東光坊・良順坊・春覚坊・西光坊・法全房・常住院の35の院坊が見える(那智勝浦町史)。那智山御師は,本宮・新宮の御師とともに,全国に檀那を有していた。また御師と檀那を結ぶ者として先達がおり,中世の熊野信仰はこの3者によって展開していた。先達は熊野参詣の案内役として檀那を導き,御師(宿坊)に願文を提出する。たとえば康応元年9月6日付檀那願文では,平儀重とその祖母・母の3人が連名で願文を出し,これに伯耆国山河寺の僧が先達として,また「那智山御師六角院」が連名している(米良文書/熊野那智1)。こうした師檀関係は,初期のころは一定していたと思われるが,鎌倉期ごろから檀那株や先達職が売買されるようになり,「熊野那智大社文書」中にも大量の檀那売券が残されている。那智山御師等が支配する檀那は,室町期~戦国期には相当な規模にのぼったと思われるが,その全貌は明確でない。年未詳の実報院諸国檀那帳によれば,大和国一円をはじめとして山城・和泉・紀伊・伊勢・近江・土佐・出羽・阿波・讃岐・安芸・備後・備前・伊予・日向・三河・武蔵・播磨・相模・下総・下野・上野・安房・常陸・陸奥各国の霊場と,「日本国名字之持分」として霊場にかかわらず氏名での檀那株が大量に書き上げられている。慶長4年付廊之坊諸国檀那帳にも同じ形式で,全国霊場と名字が記され,当時における那智御師の勢力をうかがうことができる。当社の造営に関しては,未詳な点が多いが,延享元年4月付那智山社法格式書によると,延久4年に駿河を造国として建立されたのをはじめとして,寛治元年・天治2年・平治元年(造国遠江)・承元3年(造国阿波)・建保2年・徳治元年・建久4年・元亨年間(造国安房・遠江)・貞治5年(足利義詮)・文明6年(足利義尚)・天正18年(豊臣秀吉)・慶長年間(豊臣秀頼)の造営があったという(熊野那智5)。那智山では後奈良天皇の享禄4年11月那智山12社,如意輪堂が山争いで色川から100余人に押しかけられ,焼失し,永禄11年正月に那智滝本が炎上し,奥熊野を支配してさらに那智に触手をのばした新宮の堀内安房守氏善は実方院と気脈を通じ,天正9年4月反抗する廊之坊のよる濱宮の廊之坊城(勝山城)を攻めて陥落させた。那智山は炎上し廊之坊は切腹した(熊野年代記)。その結果廊之坊の跡職をはじめこれに味方した東学坊ほか6人の所領も堀内氏と実方院のものとなった。織田信長の時代より三山への圧迫は強く,「続風土記」にも「天下擾乱の時に至りて神領多く土豪強族に掠奪せられて三山共に是より衰ふ,更に豊太閤南征の時悉く神領を没収し殆廃絶の姿となれり」とある。近世に入って三山復興の兆しが見え始めたのは,紀伊家から入って将軍になった徳川吉宗の時代である。吉宗は熊野三山造営について意を用い修築費の寄進,全国勧化の許可を与えるなど,後年有名な三山貸付事業を起こさせる端を開いた。享保18年の修築がこれであり,現在の社殿は嘉永4年の修築といわれる。江戸期の当社境内社殿は,「続風土記」に詳しく記されるが,それによれば,第一殿から第五殿と第六殿の八社合殿の他,本尊如意輪観音を安置する如意輪堂,社殿・御供所・籠所・護摩堂・三重塔などの仏舎,諸末社があった。これらの景観は,室町期においては紙本著色那智山宮曼荼羅図,江戸期にあっては紙本著色那智山古絵図に,よく表されている(ともに県文化財,和歌山県の文化財3)。豊臣秀吉によって没収された社領も,慶長6年に領主浅野氏に300石を寄進されて幕末に及んだ。明治初年の神仏分離によって,全山の仏教色が廃され,社名も熊野夫須美神社と改め,やがて熊野那智神社,熊野那智大社と改称し,大正10年には官幣中社に列した。神体の那智大滝は那智四十八滝中の「一の滝」で高さ133m。滝壺の深さは10m以上。日本屈指の大滝である。滝の拝所の位置に,当社別宮飛滝神社がある。境内社には,御懸彦神社,鎮守神社があり,末社に多富気王子神社があり,山麓の滝泉閣は実方院の屋敷跡。現在の那智大社の社殿は鈴門,透塀を含めて県文化財。本殿の五社殿が並んで南面し,八社殿は矩折に東面して建てられている。嘉永4年から同6年にかけて造営された。五社殿のうち第四殿が最も大きく第一殿の滝宮は前面が少し後退し,他の四殿は一直線にそろい,鎌倉初期の一遍聖絵等も同様に描かれている。寛永13年正月徳川頼宣寄進の銘のある「金銀装宝剣拵」は美濃彫の流れをくむ後藤琢乗の作。一名「霊剣」と呼び那智御滝の秘宝でこの宝剣を納める「銅鍍金銀箱」とともに国重文。なお「牟婁」「郡印」と2行に篆書で鋳刻された奈良期の「古銅印」と平安期から江戸期にかけての古文書,中でも鎌倉期から室町期へかけての檀那売券を含む「熊野那智大社文書」(46巻11冊2帖2枚)も国重文。その他,国指定・県指定の文化財が多数ある。そのうち,大正7年3月に那智大滝飛滝神社参道の,俗に金経門と呼ばれている地から大量の仏教遺物が出土した。この那智経塚遺物には,200点を超える銅装経筒をはじめ,飛鳥期の仏像も含む金銅仏,密教用仏具があり,一括して那智山経塚出土遺物として県文化財となっている。神事祭礼には7月14日に行われる那智の火祭り(県無形民俗文化財)とそれに付随して奉納される那智の田楽(国重要無形民俗文化財)がある。昔は扇会式祭礼または扇祭とよばれ,6月14日に行われた(続風土記)。現在は熊野の夏を彩る火祭りとして著名な例大祭である。まず7月9日に那智大滝の注連縄張替行事が行われる。ついで11日に扇張神事があり12体の扇神輿を組み立てる。13日の宵宮祭では田楽舞,大和舞が奉納される。この田楽舞は翌日も奉納されるが,この田楽は応永10年3月,堀内氏俊が京都へ行き田楽法師常正,法輪の両名を4月に連れて帰り社人に習わせたものと思われ,「熊野年代記」に「大伴丹生ノ山ニテ習之,社人皆参ルヲカシキコト云,六月ノ会式舞始ム」とある。14日の例大祭は午前10時礼殿で執行され,11時に大和舞,田楽舞,田植舞が奉納され,午後1時扇神輿が「扇指し」と呼ぶ担ぎ手によって滝本へ出御。途中伏拝(ふしおがみ)で「扇立て」の行事を行い扇神輿を残して一同滝本に下がる。滝本では宮司以下神職が祭壇の前に控え,烏帽子をかぶった神職が2本の松明に火をつけ「一の使」「二の使」「三の使」を進発させ「三の使」が扇神輿を滝本へ案内する。一方滝本では12本の大松明に滝本の「火所(かまど)」から移した火をつけ神輿の先頭の馬扇から神輿12体を次々に「お清め」しながら円陣を作って石段を上り下りする。この間に大松明の行列をくぐって烏帽子の神職他1名が光ケ峰遥拝所へ赴き「光ケ峰遥拝祭」を行う。盛んな松明の火と煙で日中ながら滝本参道に炎の絵巻を展開する。最後に大松明は扇神輿を案内するように石段を下り,大滝の前に到着した扇神輿に「扇褒め」の行事が行われ,神霊の御移りがすむと斎壇に飾られて滝本の神事が執行される。次に田刈舞,那瀑舞が舞われて行事が終わり,扇神輿が本社に還御して火の祭典が終了する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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