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神野荘
【こうののしょう】


旧国名:紀伊

(古代~中世)平安期~室町期に見える荘園名。那賀郡のうち。神野郷とも見える。那賀郡の南部山中,貴志川の上流域にあり,北に真国荘,東に猿川荘が隣接し,真国荘とともに神野真国荘とも呼ばれた。なお康治2年5月25日に作成された神護寺領紀伊国神野真国荘絵図(神護寺蔵/日本荘園絵図集成)によれば,神野真国荘は,北を「荒河御庄」,東を「八幡宮寺領鞆淵御園」および「丹生社領毛无原」,西を「八幡宮寺領野上御庄」「貴志庄 御室所領」,南を「寂楽寺領阿弖川庄」と接しており,当荘内の村として「粟田村」「猿川村」などが見え,その他「熊野新宮」「十三所大明神」の名も記されている。神野荘としての初見は,康平4年1月24日の藤原行□下文案(正村竹亭氏所蔵文書/県史古代1)で「神野御庄」とあるが,神野真国荘としての初見は康治元年12月13日の鳥羽院庁下文案(高野山文書/大日古1‐7)で「可早使者相共堺四至打牓示立券言上神野真国山地弐箇処事」と記されている。さらに鎌倉期に高野山領として定着した後は,猿川荘・真国荘と合わせて三ケ荘とも称され,一荘のごとく扱われた。康治元年12月13日の鳥羽院庁下文案によれば,もとは当国住人長依友の先祖相伝の私領であったが,高野山に寄進され,その後収公された後に院の近臣である藤原成通の所領となった。さらに,成通は鳥羽院に当荘を寄進して本家とし,みずからは領家となって預所の補任権を留保したという。康治2年正月2日の領家政所下文案(同前1‐8)には「神野真国等,為院御庄,以其年貢運上高野山」と見える。その後承安5年3月7日の法橋智秀所領荘園寄進状(同前1‐7)によれば,領家職は預所の法橋智秀によって金峰山に寄進され,さらに,安元2年12月日の法務大僧正禎喜房政所下文(同前)には「当庄者,往古之高野山旧領也」と見え,領家藤原泰通が法務僧正禎喜に寄進し,この段階で,領家は金峰山と東寺長者禎喜の二重になっていた。そして,この間に本家は八条院へと移行し,また一方で高野山は,領家職の移動にもかかわらず,康治元年以来,一貫して上分米10石を得る権利を認められていた。なお治承元年2月10日の法橋智秀所領荘園譲状(同前)によれば,智秀は「紀伊国那賀郡字神野真国」を子弟である恵珍に譲っているが,智秀・恵珍の両名は預所と考えられている。その後,寿永元年7月8日の藤原定能寄進状(神護寺文書/平遺4036)によれば,領家職が藤原定能から高倉院御菩提の為,神護寺に譲られており,しばらくの間は神護寺領となっている。このように,両荘の領有関係は伝来文書をすべて信じれば複雑を極めるが,検討の余地も残されている。一方,西隣の石清水八幡宮領野上荘と,佐々小河村をはさんで境相論が継起した。保元2年5月28日の官宣旨抜書(高野山文書/大日古1‐8)では,神野荘の四至を「東限岫峰・南限志賀良横峰・西限佐々小河西峰・北限津河」,真国荘の四至を「東限加天波(婆)峰・南限津河・西限伯父峰・北限高峰」とそれぞれ定め,佐々小河村を荘領から除くこととしている。なお康治2年5月25日付の神護寺領紀伊国神野真国荘絵図(神護寺蔵/日本荘園絵図集成)によれば,絵図の西峰の部分には「神野御庄申往古牓示所佐々小河西峰」と見え,川には「野上御庄延久四年官符云東限佐々小河」と記されており,野上荘との間に相論が行われ,当荘は敗れて牓示を川の東側に記すことになったと考えられる。しかし文治2年4月25日の後鳥羽天皇宣旨(早稲田大学荻野研究室所蔵文書/鎌遺89)では,神護寺文覚上人の弟子浄覚房(行慈)が佐々小河村を押領したとして石清水宮側から訴えられている。さらに鎌倉中期以降,高野山と玄親阿闍梨とが,小河・柴目両村をめぐって相論をおこしており,弘安3年8月日の小河・柴目両村半分和与状案(高野山文書/大日古1‐7)によれば,以前より両村を高野山領神野荘・真国荘内であると主張する高野山に対し,玄親阿闍梨が濫妨をはたらいたという。当荘は真国荘とともに本家・領家にとっては「神野真国杣山」からの材木の生産が重要視された。天養元年10月7・11日の紀伊国神野真国杣山造材日記(古田券・吉田文書/平遺2537・2538),および同年10月12日の紀伊国賀天婆木津曳出材木目録案(古田券/平遺2539)によれば7月から10月にかけて柱や板を調製することを杣行事紀朝臣真国が注進し,これらの材木は賀天婆木津から流されていた。また当荘および真国荘は院の熊野参詣の雑事の負担が課されており,久安3年正月日付の鳥羽上皇熊野詣雑事支配状(神護寺文書/平遺2600)および同4年2月5日の御熊野詣御上道雑事注文(同前2639・2640)には,紀伊の山中を南下して,荘民が中辺路(なかへち)に設けられた鳥羽院の宿所へ菓子や御菜を運搬した旨が記されている。源平内乱の後には,元暦元年6月日の源頼朝下文(同前4182)に「其上件庄被寄進高雄山畢」と見え,源頼朝は当荘の神護寺への寄進を認めた上で宰相中将藤原泰通の領有権を保証している。また元暦2年正月19日の僧文覚起請文(同前4892)に,同寺領として「神野真国庄」が見えるが文覚は「法皇之御手印也」として主張しており後白河院の保護がうかがわれる。なお元暦元年のものと思われる5月18日の関東御教書(里見忠三郎氏所蔵文書/平遺4171)によれば,当荘において丹生野(屋)八郎光春(治)が狼藉をはたらき荘領を押妨したという。しかし,正治元年6月21日の紀伊神野真国荘百姓等言上状(高野山文書/鎌遺1060)によれば,神護寺復興に尽力した文覚上人の配流に伴い,神護寺の支配力は弱体化し,高野山悪僧や武士に押妨されるようになった。すでに長寛2年7月16日の神野荘住人等請文(高野山文書/大日古1‐7)に神野荘住人は請文を捧げて高野山の支配下に入ろうとしていたが,正治元年に至って,百姓等は武士の押妨を免れるために「大師之旧領」であるという理由で高野山の支配下に入ることを定めており,高野山の勢力が荘民の間に及んでいたと考えられる。鎌倉初期になると本家職は八条院の死後,後鳥羽院の子息順徳天皇に移り,領家職は,後鳥羽院の近臣である按察使藤原光親の手に移っているが,このことについては建保4年10月25日の按察使家政所下文(同前1‐1)によって確認される。承久の乱後,光親は失脚するところとなり,承久3年10月24日の後高倉院々宣(同前)によって高野山に領家職が与えられている。なお承久3年10月晦日の権大僧都静遍奉書(同前)には,預所職については「永代就検校房補之」と記されており,高野山検校の管轄となっている。なお当荘の年貢は奥の院にあてられるほか,供僧職が設けられており,荘民は,奥の院の掃除役を負担している。しかし,神野真国荘は承久の乱の京方の没官領であり,一旦は地頭の設置が行われたため,高野山はその停廃を訴えた。その結果,嘉禄3年9月9日の修理権亮北条時氏請文案(同前1‐7)によれば六波羅探題北条時氏は「神野真国庄地頭職」を返付しており,高野山は,鎌倉中期以後,地頭の領主制が及ばないという好条件の下で両荘の強力な支配を行った。例えば安貞2年4月日の高野山衆徒置文(同前)に「神野庄公文能光永不可令還免事」と見え,高野山は実力で神野荘公文能光を追却し,さらに建長6年9月7日の高野山衆徒下文案(同前1‐6)によれば,惣刀禰蓮願も荘民の訴えによって高野山より同職を召し上げられ,のちに子息平家氏に還補されたという。支配組織について見れば,預所は衆徒から選ばれ,その下に中司を置いて両荘を一括して実務を担当し,下司は置かず,両荘それぞれに,公文と惣追捕使を置き,さらにその下に刀禰と番頭を設けている。正応4年9月22日の神野荘正友名番頭友正起請文(同前1‐7)や同日付の神野荘上井刀禰起請文(同前)などに正友名番頭友正や上井刀禰坂上清国の名が見える。その後,院政期には「神野内猿河村」と称されていた部分が一荘として猿川荘となっており,これと真国荘および当荘とをあわせて三ケ荘と呼ぶようになった。高野山はこの三ケ荘を一括して支配し,荘官に起請文を提出させたり,あるいは百姓に荘官非法を訴訟させることによって,荘官の職務権限の逸脱をチェックしようとした。なお,「続風土記」高野山之部寺領沿革通紀に略記された弘安8年9月日の金剛峯寺寺領注文写に「当山知行分」のうちとして「神野庄〈当山検校〉」とある。鎌倉後期には,三ケ荘の荘官に何度も起請文を提出させており,高野山の支配が揺らぎ始めていたが,南北朝期以降も寺領荘園としての支配が続き,応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)に当知行分として「三ケ庄〈神野 真国 猿河〉」と見えるほか,同10年6月日の諸堂畳蓆納分支配注文(高野山文書/大日古1‐6)にも「一,御影堂 荒川神野三ケ庄」と見え,他の2荘とともに御影堂畳蓆を納めている。また享禄4年6月25日の不断経掃治兵士下状在所日記(同前1‐8)によれば不断経の為に掃除兵士を出している。戦国期においては,年未詳2月4日の金剛峯寺惣分沙汰所祐尊書状(河野家文書/高野山文書7)に「神野殿」と見え,これは地侍クラスの者で,神野・真国・猿川一帯を知行していたと推定され,行人方の下で合戦の指揮をとっていることがわかる。なお慶長19年7月吉日の京都大仏供養人足注文(勧学院文書/高野山文書1)には「八拾人 神野」と見え,当地から行人方よりの出分として記されていることから三ケ荘は,行人方の所領であったと考えられる。なお永仁2年7月25日の石走荘々官職改替置文案(高野山文書/大日古1‐4)によれば,石走村の公文志賀野入道信正の所従が,当荘内の交易の中心である「神野市場」において,天野社長床衆の増竜・竜勝らをからめ捕るという事件が起きている。また当荘内の寺社としては安貞2年4月日の高野山衆徒置文(同前1‐7)に「庄内神社十三所 押止恒例祭事」と見え,現在の十三所神社との関連がうかがえ,そのほか正平13年9月3日付の満福寺鐘(紀伊国金石文集成)に「紀伊国那賀郡(ママ)高野山御領内神野庄」と見え,応永9年10月1日付の西福寺鰐口(同前)に「神野庄箕六村西福寺常住也」と見えることから,現在の満福寺(美里町神野市場)・西福寺(美里町箕六)も中世において当荘内にあったことがしられる。当荘は津川・赤木・高畑・鎌滝・箕六などの村々と,正友名・是長名・重安名などの名によって構成されていたが,隣接の真国荘・猿川荘とともに,中世・近世を通じて,高野山領で,天正20年8月4日の豊臣秀吉高野山寺領朱印状(高野山文書/大日古1‐2)には「弐千四百三十六石 紀伊国南賀郡内 神野」と見える。なお,江戸期に編纂された「高野春秋」の延喜11年条に「以神野真国二郷被寄進奥院常灯料所,是大原父子之信施也〈古記云,此両郷者,仁和年中大原屡丸開作之〉」と見えるのをはじめ,同書には当荘名が散見する。また,成立年代未詳ながら,平安期に作成されたと思われる丹生大明神告門(上天野丹生広良氏文書/かつらぎ町史)に「神野・麻国」と見えるが,これらの史料は検討を要する。荘域は現在の美里町の安井・永谷・神野市場・箕六・津川・鎌滝・赤木・高畑などの一帯と推定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7171508