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小松原通
【こまつばらどおり】


(近代)明治5年~現在の町名。はじめ1~9丁目,昭和49年1~8丁目,同58年からは1~4丁目がある。江戸期は和歌道沿いの武家屋敷地で,和歌道・和歌道筋と呼ばれた。明治5年武家屋敷地に町名が付されて成立。明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる。和歌道沿いには松並木があり,砂丘上に沿う根上り松群は奇勝であった。町名は,この松並木北部に連なる町筋であることに由来する。この和歌道は明治13年仮定県道に認定され,昭和20年国道41号,同33年国道42号に指定された。明治5年同道沿い,北の湊のうちを1丁目とし,2丁目から吹上のうちとなり,南へ,城下南端の9丁目に至る。明治7年9丁目に新堀南ノ丁3丁目を編入。「安政城下町図」によれば,1丁目域には家老久野丹波守(伊勢田丸城主1万石)屋敷・御中間部屋,2丁目域には大御番頭山本理左衛門(1,400石)屋敷,3丁目域には御城代渋谷儀兵衛(1,400石)・菊之間詰有本左門(1,400石)・御城代広田杢右衛門(1,200石)・寄合大畑内膳(350石)・御奏者番山中篤之助(450石)屋敷・御用屋敷,4丁目域には大御番正木五郎右衛門(1,000石)・同平井助左衛門(1,500石)・加判之列金森孫右衛門(2,000石)屋敷,5丁目域には家老三浦長門守下屋敷,6丁目域には寄合三上甚太夫(500石)・加判之列村上与兵衛(3,500石)屋敷,7丁目域には寄合久世三左衛門(300石)・奥詰井口源次右衛門(300石)屋敷,8丁目域には,堀止町人地の南部に白子五十人組之頭松尾三七(275石)・御友之間廊下詰古屋一之右衛門(275石)屋敷,9丁目域には勝野彦次郎・糸川久輔屋敷などが見える。なお3丁目域に描かれる御用屋敷は,和歌山藩5代藩主,のち8代将軍徳川吉宗の貞享元年誕生に際し佐野惣左衛門屋敷を召し上げ御誕生屋敷と称した屋敷で,現在「徳川吉宗生誕之地」の石柱が建てられている。明治6年には,1丁目の戸数38,男74・女76,2丁目の戸数4,男12・女9,3丁目の戸数54,男111・女114,4丁目の戸数42,男86・女88,5丁目の戸数129,男244・女258,6丁目の戸数10,男21・女30,7丁目の戸数12,男28・女33,8丁目の戸数27,男63・女68,9丁目の戸数17,男29・女34。1丁目となった旧久野丹波守屋敷8,200坪余は,明治16年和歌山監獄本署となり,同19年和歌山監獄,同23年和歌山監獄署,同36年和歌山監獄,大正11年和歌山刑務所,同13年大阪刑務所和歌山支所,昭和4年和歌山刑務所支所と名称を変えたが,昭和7年市内東部の加納へ移転した。同13年,同跡地へ西汀(にしみぎわ)丁から和歌山県庁が新築移転。なお明治42年1月西汀丁の県庁前から和歌道を和歌浦町に至る市内電車が開通,同年2月和歌山市駅まで延長,町域辺りには扇の芝(真砂丁2丁目),病院前(同4丁目),兵営前(同5丁目),堀止(同7丁目)の各停留所が設置された。明治維新後和歌道筋の武家町は衰微しつつあったが,この市電開通後は徐々に商店街として発展していった。2丁目には大正14年和歌山憲兵分隊が4丁目から移転し,電車停留所も憲兵隊前と呼んだが,昭和15年防諜上真砂丁と改称した。なおこの時,兵営前も小松原5丁目と改称した。3丁目には明治14年基督正教昇天会堂が創建されて布教をはじめ,同42年県立仙渓学園が設置されたが,大正2年雑賀(さいか)村へ移転した。4丁目には明治6年吹上小学が金森良恭氏宅を借用して創立,同20年吹上尋常小学校と改称,同25年6丁目へ移転した。また同42年和歌山憲兵分隊が設置されたが,大正14年2丁目へ移転。明治42年には私立和歌山感化保護院を設立,大正2年雑賀村へ移転。明治43年日本赤十字社和歌山支部が七番丁から4丁目に新築移転し,昭和18年和歌山赤十字病院と改称。5丁目には元和5年徳川氏入国とともに駿河から移転した日蓮宗善曜山蓮心寺がある。昭和18年同寺内へ和歌山高等女学校同窓会桜映会経営のさくら幼稚園が開園した。日本画家として明治期~大正期に活躍した下村観山(晴三郎)は,明治6年5丁目に生まれ,同14年東京愛宕町1丁目へ移転するまで居住した。下村家は小鼓幸流をもって紀伊徳川氏に仕え江戸詰であったが,明治元年和歌山へ帰住していた。観山は狩野芳崖に師事,東京美術学校卒業,日本美術院創立に参加し,「弱法師」「大原御幸絵巻」などの作品で有名である。明治40年天理教組合事務所創立,のち和歌山教務支庁となった。6丁目には明治25年吹上尋常小学校が4丁目から移転,同41年校地拡張の際に住所変更し玉藻丁1丁目となった。8丁目には明治9年小松原小学が創立,同12年吹上小学に合併された。昭和5年8丁目で出火,13戸全焼の大火となり,和歌山第61連隊消防中隊が出動して消火にあたった。大正2年の戸数298・人口1,403。昭和20年7月の空襲では,1丁目・4丁目・5丁目の大部分が焼失する被害をうけた。なお町内を南北に縦貫した南海電鉄和歌山軌道線は,昭和46年3月廃止された。一部が同49年堀止南ノ丁,同52年小松原5~6丁目・堀止西1~2丁目・堀止南ノ丁,同58年吹上2~4丁目・堀止東1丁目となる。現在1丁目に和歌山県庁・県警察本部,2丁目に菱川病院がある。




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「角川日本地名大辞典」
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