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隅田南荘
【すだみなみのしょう】


旧国名:紀伊

(中世)鎌倉期~室町期に見える荘園名。伊都(いと)郡のうち。隅田荘河南ともいう。正安元年12月23日の願心所領処分帳案(隅田家文書/県史中世1)に「南荘」とあるのが初見。鎌倉期には地域名称として隅田荘の紀ノ川より北を隅田北荘,南を隅田南荘と称していた。なお「続風土記」高野山之部寺領沿革通紀に略記された弘安8年9月日の金剛峯寺寺領注文写には「他家知行分」のうちとして「隅田南庄〈八幡宮〉」とある。しかし鎌倉幕府滅亡後の元弘3年10月19日,後醍醐天皇綸旨(束草集/大日料6‐1)のいわゆる「元弘の勅裁」が下され,紀ノ川の南側は高野山領隅田南荘として独立し,北側だけが従前どおり石清水八幡宮領として残り,隅田北荘となった。荘園領主は異なるが,隅田八幡宮を氏神とする隅田一族の結束は固く,史料上南・北両荘の総称として「隅田荘」も散見する。隅田惣領家が滅亡したあと,隅田一族の中心的な存在として有力であったのは,隅田北荘では葛原氏,隅田南荘では上田氏であった。建武2年8月16日の隅田南荘下司御房丸起請文(高野山文書/大日古1‐8)によれば,「隅田南庄下司并名主職者,自供僧方,蒙安堵上者」とあり,上田氏が当荘の下司に補任されている。また正平4年後6月3日の後村上天皇綸旨(上田哲二郎家文書/橋本市史上)で上田虎正丸が「隅田庄一分地頭職」に補任されており,当時南朝方に与したことがわかる。正平9年9月16日の隅田南荘分田目録(高野山文書/大日古1‐4)によれば,当荘の惣田数は36町4反140歩(斗代4町50歩),うち除田(畠成・屋敷・堂田・神田・湯屋免・荒など)が11町5反270歩であり,実質24町8反余の田地が49口に分田されており,うち5口は下司分であった。同目録には「守清名」「宗包名」など24の名が見えており,石清水八幡宮領時代は名編成による支配体制だったものと考えられる。そして同年10月日の隅田南荘三供僧契状(同前)には「隅田南庄供僧事書条々」として,高野山による分田支配について定められており,その中から預所得分は新夫用途800文・乃米3斗,年行事得分として分田1口,また「大深」が当荘内に含まれていたことなどが知られる。なお正平17年7月6日の高野山大集会評定事書案(飛見家文書/県史中世2)によれば,当荘は南谷分に含まれている。これら49口の分田は高野山供僧方の支配下におかれていたが,直接の荘園の実務は下司上田氏に任されていた。明徳3年5月日の隅田南荘下司請文(高野山文書/大日古1‐4)によれば,上田氏は年貢20石で当荘を請け負ったのであるが,同年6月日の隅田南荘供僧契状(同前)によれば,上田氏は正平9年から明徳3年までの38年間請料を全額納めず,多いときで18石,少ないときで12~13石という状況が続き,未進分は185石に及んでいた。そのため高野山側は下司を改易しようとしたが,沙汰所の口入や上述の下司請文などで下司に再任された。ところが,その後上田氏が3貫文納めると定められていた夏麦代を2貫文しか納入しがたいことを申したてたため,結局上田氏の請所を改め,農民の直納となった。下って応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)の,「当知行分」の荘園として「隅田南庄」が見える。また同32年5月26日の天野社一切経会段米納日記(高野山文書/大日古1‐4)に「一,捌斗九升五合 ス田南庄」とある。その後上田氏の請所は復活し,永享4年3月12日の三所十聴衆評定事書案(勧学院文書/高野山文書1)には「隅田河南庄領家分請所代官下司非例多間可被改易之由,名主百姓等有訴詔之処」とあり,名主・百姓らが下司の非法を訴えてその改易を願い,団結して逃散という手段に出たため,この評定で上田氏を改易し,「下司(上田)并山田・小島・中山・芋生・平野,為六人自分之年貢等,直月預坊江可有運上之由,三所并十聴衆一同評定之処也」と,これら隅田一族の6氏に直納を命じている。このうち小島・芋生・平野の3氏は隅田北荘を本貫とする人々で,上述した正平9年の分田目録にも上田氏の他に中山・山田・小島・下山・兵庫などの人々が見えており,当荘への進出がうかがえよう。同6年2月9日の金剛峯寺学侶集会評定事書(同前)には「彼上田就守護方企種々奸訴,年貢等二ケ年分于今令違乱」とあり,上田氏は紀伊守護畠山氏の勢力を背景に年貢を横領していたことがわかる。結局高野山は学侶一同離山の決意で上田貞長を京都に訴えることを定めている。このように当荘は高野山領であったが,在地支配の現実は多難であった。なお永享4年9月17日の金剛峯寺学侶一味契約状(高野山文書/大日古1‐2)には「新本二会之所領」の1つに「隅田」が記されている。上田氏の本貫地は荘内上田であったが,年月日未詳の赤塚村根元由緒書(上田正義家文書/橋本市史上)に赤塚村の村名が上田氏の廟塚をもって名づけられたとの説があるように,上田氏の墓が赤塚村にあり,赤塚村の東光寺の堂座講は上田氏を中心に運営されていた。宝徳元年閏10月日の伊都郡日別厨返渡注文(高野山文書/大日古1‐5)には「五貫百文 隅田河南」とあり,明徳2年の年紀のある諸供領臈次番付書(同前1‐8)の320臈に「隅田南庄一反 字小芋宇,作人平四郎,長本房寄進」,363臈に「隅田南庄内字平田,当作彦三郎 真聖房寄進」とある。なお応永8年9月6日の隅田荘段銭注文案(隅田家文書/県史中世1)によれば,段銭納入分として「一,弐十町 河南分」と見え,不納分としても「〈川南分〉十六町四段小廿歩」とあり,当荘の総田数は36町4反140歩となっていることがわかる。天正19年に実施されたと考えられる太閤検地によって,当荘は高野山領から分離された。荘内の地名としては赤塚村・上田・須河村・田殿村・大深などがあり,現在の橋本市南東部・奈良県五條市の一部に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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