闘雞神社
【とうけいじんじゃ】

田辺市湊にある神社。旧県社。祭神は伊邪那美命をはじめとする熊野十二神。古くは田辺新熊野神社,新熊野闘雞権現社と呼ばれ,新熊野雞合権現社などともいわれた。小丘陵が連なる西端,仮庵山の北麓に北向きに鎮座する。仮庵山は当社の禁足地で,仮庵山を含めた一帯はキンジ山と呼ばれて神聖視されている。中腹から丘頂にかけて平安末期~鎌倉初期の3基の経塚群がある。第1号経塚は中腹部にあり,土壙の底部のみ残存し,刀子・小皿・硯・平形合子などが検出された。また第2号経塚は丘頂から少し下った傾斜地にあり,石室内から甕・合子・刀子・青白磁碗が検出された。第3号経塚は丘頂にあって,多くの大型合子片が検出されている(闘雞神社の仮庵山経塚遺跡/田辺文化財2)。縁起では,神代に神光(熊野坐大神)と海竜王が仮庵山に鎮座したのが創祀というが(権現宮縁起并秘事/大福院所蔵文書),社伝では允恭天皇8年9月の創祀とする。また「続風土記」は,18代熊野別当湛快が平安末期に田辺地方に勢力を拡大した際熊野三所権現を勧請し,新熊野社と称したと記す。その初源はともかく,直接の起源が熊野別当の勧請によるものと考えて誤りでなかろう。21代熊野別当湛増(湛快の子)は当社付近に坊舎を構え,別当として当社を管掌したと伝えられる。「吉記」承安4年9月28日条には,「着田辺湛増法眼房」とあって湛増の田辺在住が確かめられるから(大成),熊野別当家の庶流(田辺別当家)の管理下に置かれていたことはほぼ間違いなかろう。「平家物語」巻4源氏揃の段によれば,以仁王の令旨を奉じた源行家が諸国の源氏と連絡をとっていることを知った湛増は,平家に恩ある身だとして源氏方の那智・新宮を攻めたという。しかし治承4年8月中旬には,湛増は退潮気味の平家政権に見切りをつけ,源頼朝の挙兵に応じて謀反し,有田(ありだ)・日高郡境の鹿ケ瀬(ししがせ)峠以南の地域を掠領している(玉葉治承4年9月3日条)。ちょうどこのころ,湛増は源頼朝の平家追討に際し,源平2氏のどちらに味方するかを決定するため,当社で神楽を奏し,赤白各7羽の鶏を闘わせたところ,白鶏の方が勝ちを占めた。そこで湛増は源氏に助勢することに決め,熊野水軍を率いて参戦,源氏を勝利に導いたという話が「平家物語」巻11雞合壇浦合戦の段に記されている。この故事により,闘雞神社と呼ばれるようになったという(続風土記)。「源平盛衰記」巻43も「田部の新宮」として同様の話を載せる。湛増の源氏方への寝返りは,湛増が源為義の子で,妻は頼朝の叔母にあたるという事も影響していよう(尊卑分脈)。なお源義経の従臣武蔵坊弁慶は,この湛増の子だとする説が一般的に流布している。その後鎌倉前期まで田辺別当家の屋敷が当地にあったことは,「明月記」建仁元年10月12日条,および「頼資卿記」寛喜元年11月2日条・同月9日条によって明らかである。室町期には当地は熊野本宮大社領となり,当社もその支配を受けるようになったと考えられる。戦国期の明応4年兵乱のため社殿が破却され,翌年熊野山検校聖護院門跡道興の肝煎で「十方檀那之御助成」を得て造営されている(新熊野十二所権現勧進序/社蔵)。この際,執行職の乗源が大いに力を尽くしたという。近世の「松雲院旧記」によれば,古くは社僧6人・講衆6人・荘官12人・神子8人・神頭2人・堂下3人・承仕2人・本願1人・鐘撞1人,合計で41人おり,5院6坊があったと伝えられる(田所文書/万代記)。しかし天正13年豊臣秀吉の紀州攻めによって「鶏合権現社領断絶」となり,社僧をはじめとする社人たちは一時四散してしまったという(万代記)。その後田辺領主杉若越後守は御供料として毎年米5石を寄進したため(同前),慶長7年には証誠殿(本殿)が再興されたと伝える。同10年浅野氏重も杉若越後守の前例を踏襲(紀南郷導記),翌年には鳥居内に松苗1,000本を植えている(万代記)。江戸初期の社殿配置については,寛永7年の「新熊野権現宮絵図」(大福院蔵)によって知られる。南北19間,東西46間の境内に神楽舞殿・絵馬堂・鐘撞堂などが点在し,その内部南北9間・東西27間の空間には上四社・中四社・下四社,行者堂,大黒天社などが立ち並んでいる。また参道は鳥居まで138間あり,境外には南北136間におよぶ馬場が設置されている。慶安3年には執行職を勤めていた待賢寺が当社隣接地に移転,京都仁和寺から松雲院の号を受けて,それまでの田所氏に代わって別当寺となった(万代記)。市内下万呂待賢寺平に移転前の待賢寺の旧跡が残る。かつて松雲院には木造不動明王立像(鎌倉期)と木造地蔵菩薩立像(室町期)が安置されていた(いずれも現在地蔵寺蔵)。また鳥居の前にある本願大福院(現真言宗醍醐派)は,田辺別当家の後裔で,古くから当社および熊野修験との関係が深い寺だった。山号を新熊野山(あるいは仮庵山)といい,極楽寺とも呼ばれた(名所図会熊野篇)。「続風土記」には別当・本願の他に,執行1人・神子1人・楽人神頭1人・堂下2人が記され,田辺城下の総産土神とされた。明治維新に際して松雲院の堂宇・仏像は地蔵寺(田辺市本町)に移され,大福院とも分離。また社名も闘雞神社と改称し,明治6年村社,同14年県社に列格。文明3年~天保10年の田辺組大庄屋の記録である「万代記」(100冊)と,同じく天保11年~明治2年の「御用留」(42冊)は県文化財。また天正13年~慶応2年の田辺町会所の史料である「田辺町大帳」(130冊)とその索引「町大帳早引」(8冊)も県文化財。近世田辺の庶民の政治・経済・生活全般を知る上で貴重な町方と在方の史料といえる。他に安土桃山期の「那智山参詣曼荼羅図」や弁慶の産湯の釜と伝えられる鉄釜などがある。祭礼は古くは旧暦6月24~25日に行われていたが,現在は7月23~25日の3日間。一般的には「田辺祭」(笠鉾祭とも呼ばれる,県無形民俗文化財)と称し,神幸式・流鏑馬,江川浜への神輿渡御,潮垢離,暁の神事などで構成されている。寛永19年から始まったもので(万代記),この笠鉾が担ぐ程度のものから車になったのは寛文13年のことである(同前・田辺町大帳)。以後祭りは次第に華美なものとなり,今に至っている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7172532 |