中島村
【なかじまむら】

旧国名:紀伊
(近世)江戸期~明治12年の村名。有田(ありだ)郡のうち。有田川下流右岸に位置する。村名の由来は「続風土記」には「此地は川原なりしに後川中の洲を開きて村居せしより村名起れり」とある。和歌山藩領知行所。宮原組に所属。村高は,慶長検地高目録では487石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに531石余。「続風土記」によれば,田畑高531石余,家数115軒・人数493,村居は三分され本村以外に小名西迎・鳥垣内があった。宮原井堰より取水し,沖積地では稲作が盛んであり,江戸中期以降北の山腹は階段状の畑とされミカン栽培が盛んとなった。ミカンは有田川河岸の船場で船積みされ,蜜柑方組織によって北湊まで積み下し,そこから千石船に積み替え,有田ミカンとして売買されたという。文政6年には干害がひどく,有田郡全域に騒動が起こり,6月13日ころには当村を代官一行が通過している(有田郡大乱実録/県史近世3)。嘉永7年には江戸送り蜜柑が御仕入方支配となり,10月15日ころ騒動が起こったが,12月に至って藩側も勝手方支配に復することを約し,平静に戻った(有田市誌)。産土神は千田村の須佐神社。神社は大将軍森・牛神社・秋葉社・雨神社。寺院は浄土宗鎮西派地福寺・浄土真宗本願寺派光明寺。明治4年和歌山県に所属。同6年には戸数101,男226・女218。同11年の反別は田地26町余・畑地32町8反余・宅地3町2反余(同前)。同12年下中島村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7172643 |





