日前国懸神宮
【ひのくまくにかかすじんぐう】

和歌山市秋月にある2つの神社。ともに延喜式内名神大社。紀伊国一の宮。旧官幣大社。祭神は日前神宮が日前大神を主神として相殿に思兼命・石凝姥命を祀り,国懸神宮が国懸大神を主神として相殿に玉祖命・明立天御影命・鈿女命を祀る。両神宮は同一境内にあってともに南面し,向かって左に日前神宮,右に国懸神宮がある。古くから日前・国懸と並称され,単に日前宮(にちぜんぐう)と呼んで両宮を指す場合も多く,現在でも日前宮が一般名称となっている。紀伊国だけでなく,朝廷とのかかわりも強く,また紀伊国造家の斎く神として古代から中世にかけて大きな勢力を有した。「日本書紀」神代巻上の一書に,天照大神が素盞嗚尊の乱暴なふるまいに怒って天石窟に隠れた時,八百万神が大神を招き出すために,大神をかたどった日矛を作り,「是即紀伊国所坐日前神也」とする。この一書は「日本書紀」本文や「古事記」の記載と多少くい違うところがあるため,後世さまざまな解釈が生まれた。「古語拾遺」や「旧事本紀」では,日矛を作ったのちに「日象之鏡」を2つ作り,初めの方は少し意に合わず,後の方は美麗で,前者を日前宮の神,後者を伊勢大神として祀ったとする。また「釈日本紀」では,「日本書紀」の日矛を「古語拾遺」の日象鏡と同体視する説や,「大倭本紀一書」を引いて「一鏡者天照大神之前御霊,名国懸大神,今紀伊国名草宮崇敬解祭大神也」とする説なども収めている。日前宮の神体に関するこうした解釈の混乱は,大和朝廷の皇祖神とみなされる天照大神とその神鏡,および伊勢皇大神宮に対する神話的意味付けの混乱でもあった。いずれにせよ,古代における日前宮は,皇祖神に準ずる神と見なされていた。一方国懸宮は,「日本書紀」朱鳥元年7月5日条に「奉幣於居紀伊国国懸神」と見えるのが最初で,その後「新抄格勅符抄」の神事諸家封戸には「国懸須神 六十戸 紀伊国」として,「日前神 五十六戸 紀伊国」と並記され,大同元年に「日前神 五戸〈紀伊〉国懸神 五戸〈同国〉」の新封施入が見られる。このように日前・国懸は別々の神社とされ,以後両宮は日前・国懸と並記されるか,日前宮の名で両宮を指すようになる。両宮がもともとは同社か別社かということについては明確な史料がない。ただ「日本書紀」持統天皇6年5月26日条に見える,朝廷が奉幣した4社のうちの「紀伊大神」は,両宮がまだ一社であったころの伝承を記しているのかも知れない。紀伊大神は,同年12月24日にも朝廷から「新羅調」を奉られている。一般に紀伊大神は日前・国懸両宮を指すと考えられているが,紀伊国には他に「日本書紀」宝剣出現条で素盞嗚尊の子,五十猛命を「即紀伊国所坐大神是也」としている。ここでいわれている紀伊国所坐大神が五十猛神を祀る伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽(いだきそ))であることは確実で,先の持統紀の紀伊大神も伊太祁曽神社と考えられる可能性もある。「旧事本紀」地神本紀に,五十猛神は「大屋彦神」とも称し,大屋姫神(和歌山市宇田森,大屋都姫神社)・都麻津姫神(和歌山市内に同神を祀る神社が3社ある)とともに「紀伊国造斎祠神」であった。すなわち,日前・国懸両宮と同じ紀伊国造が奉斎する神であり,これらはもともとは密接な関係にあったと考えられる。「続風土記」は「紀伊国造家譜」を引き,崇神天皇51年に始まる神鏡伊勢遷座の時,日前・国懸(日象鏡・日矛鏡とする)両神を名草(なぐさ)山西麓和歌川河口の浜の宮神社(和歌山市毛見)の地に留め,両神は3年後に伊太祁曽大神の鎮座していた名草万宮(両宮の現在地)に遷座したとしている。この説は鎌倉期撰述の「釈日本紀」や「倭姫世紀」の影響を強くうけているが,古代における両宮と伊太祁曽等3社との関係をまだ伝えている可能性もある。両宮は紀ノ川南岸に広がる河南条里区の中枢に位置し,また同条里区を潤す宮井川の中心的分水樋,音浦樋に近接している。平安末期の成立とされる「長講金光明経会式」「長講法華経後分略願文」(伝教大師全集4)には,「名草上下溝口神」「紀伊……名草上下神」の名が見え,この神も両宮とみる説がある(岩橋千塚)。これから両宮,特に国懸宮の農耕神・開発神的性格をうかがうことも可能である。両宮の神主家は,古くから紀伊国造家が世襲していた。国造家は,「国造家譜」によれば天道根命を始祖とし,第5代に大名草比古命,第6代に宇遅比古命など,名草・海部(あま)郡の地名を冠する古代豪族として出発した(続風土記)。両宮の東方山地上にある岩橋千塚古墳群は,紀伊国造家を首長とする集団の墳墓と考えられ,5世紀から6世紀にかけての築造とされる。紀伊国造の名が史上に登場するのは「木国造」としてで,「古事記」孝元天皇条に「木国造之祖。宇豆比古之妹山下影毘女」と見える。宇豆比古は,「日本書紀」景行天皇条では「紀直遠祖菟道彦」と見え,「国造家譜」第6代で,武内宿禰の父とされる宇遅比古命に相当する。「国造家譜」第9代等与美美命は,「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に「紀直祖豊耳」として登場する人物で,実在性はかなり高い。また同家譜第17代目忍勝も,「日本書紀」敏達天皇12年条に吉備国海部直羽鳥とともに百済への使節を命じられた「紀国造押勝」に相当する。「国造家譜」によれば,第1代天道根命がはじめて両宮を「紀伊ノ国名草ノ郡毛見ノ郷」に祀り,第5代大名草比古命の時両宮を現在地に移したとする。「貞観儀式」には,出雲国造と並んで天皇による紀伊国造任命の次第が収められており(故実叢書31),同国造が大和朝廷にとって重要な政治勢力であったことがうかがわれる。律令体制成立以降の国造は,制度的には政治的実権を剥奪され,もっぱら祭祀にたずさわるようになるが,依然として大きな政治力を持っており,寛平6年6月1日付太政官符(類聚三代格)に,紀伊国の「国造并禰宜,祝等」が事を神事に寄せて国内の神戸・官戸の課丁同率化に協力しないとして国衙から訴えられているのが見える。嘉祥3年10月20日,文徳天皇は両宮に神宝を献じ天下平安を祈願(文徳実録),その後も両宮は朝廷よりたびたび奉幣を受けているが,神格にあずかったことは一度もない。これは両宮が伊勢神宮と同様皇祖神としてあがめられていたからといわれる(続風土記)。「延喜式」神名帳名草郡条に,両宮ともに名神大社とされ,月次・相嘗・新嘗にもあずかっている。天暦元年,村上天皇の即位後の諸社大神宝使発遣に際し,両宮は2具の神宝と2巻の宣命を奉献されており(北山抄),以後延久元年4月7日(江家次第)・天仁2年10月29日(殿暦)などの大神宝にもあずかっている。両宮は,大同元年当時それぞれ本新封日前神61戸,国懸須神65戸の神戸を給されていたが,それより早く「続日本紀」養老7年11月16日条に「紀伊国名草郡等少領已上,聴連任三等已上親」とあり,名草郡領を一般の諸郡領と別格扱いにしている。なお「令集解」は伊勢国度会郡等と同じく名草郡を八神郡の1つに数えている。「和名抄」の紀伊国名草郡条にも,日前神戸と国懸神戸の存在が認められる。のちのことだが,嘉承2年正月25日付官宣旨案には,名草郡内に「在日前・国懸・郡(伊)太祈(祁)曽・鳴神・紀三所并大小諸神社仏寺領田畠等,仍庄領巨多,公地不幾」とあるから(高野山文書/大日古1‐4),神郡としての伝統は12世紀にまで及んでいたといえる。応保2年11月日付大伝法院僧徒重解案には,保延6年ごろ両宮神官が諸郡に散在する260町余の神領を「社辺一円之便地」320余町と相博し,これを神宅新荘と称したとある(根来要書下/平遺3234)。神宅荘は,名草郡四院の1つ神宅院を中核とするもので,大治6年12月26日付紀伊国造高経譲状案で知られるように,その院司は両宮神主(紀伊国造)が相伝していた(日前宮古文書/和歌山市史4)。神宅本荘・新荘ともに,中世を通じて両宮のもっとも中心的な社領となったと考えられる。一方,大治2年8月17日付紀伊国在庁官人等解案では,日前・国懸両宮の封戸121烟の代わりとして,岡前・和太南・安原・岡田下各村内79町が両社領として立券されている(林峰之進家文書/和歌山市史4)。同解案によれば,この地は塩(潮)入地のため耕地とならなかったところ,40余町におよぶ築堤工事によって開作することが可能なので,国司不入地として認めてほしいと両宮神官が願い出て認められている。これは古代以来の神戸を中心とする神郡支配から,中世的な社領支配に移行しつつあったことを示している。しかしこのように広大な社領を,当時両宮の力のみで支配しえたとは考えられず,紀伊国造家と密接な関係にあった国衙機構に依存した支配であったろう。両宮の地は,熊野街道に面していないが,比較的近接した場所にあるため,平安後期ごろから盛んになった熊野参詣の途中,法皇・公家等の参詣がしばしばみられた。「大御記」永保元年9月26日条に「今日,経国府南路,故参日前・国懸両社奉幣」とみえ(県史古代1),寛治5年12月7日両宮の遷宮日時が内裏で詮議されているが(中右記/大成),両宮の重要性がまだ中央では失われていなかった証といえよう。承暦4年,紀伊守小槻宿禰孝信は国司重任の功を募って「日前・国懸,熊野新宮,丹生等三箇所」の神殿・雑舎を建造した(嘉応元年9月日付厳島神主佐伯景弘解写/芸藩通志18)。平安末期から鎌倉期にかけて,両宮は紀伊国一の宮として国衙の保護を受けていたので,社殿等の造営は国役で行われている。長承2年9月日付紀伊国司庁宣では,高野山大伝法院と密厳院が寺領に両宮の造営国役の課されたことを不法として訴えている(醍醐寺文書/大日古19‐2)。また「粉河寺縁起」にも,保延年間に国使が粉河寺領内4か村に両宮造営役と称して乱入したと見える(続群28上)。天養2年3月28日付大伝法院陳状案には,当時国衙と結んで社領の集積や国役による公田支配を展開する両宮神官の有様が,よく伝えられている(根来要書下/平遺2554)。長寛2年正月に両宮は焼亡したが(百練抄),朝廷はこれを重くみて同年3月に3日間の廃朝を行い(山槐記),年未詳10月23日付紀伊守源為長請文案によると,同年中には早くも造営の準備が進められている(根来要書下/和歌山市史4)。「続左丞抄」には,鎌倉期嘉禎元年以前の両宮造営遷宮の年紀を列記しており,それによれば天安元年・昌泰元年・承平5年・天延元年・寛弘3年・永承4年・寛治5年・保延5年・養和元年・貞応2年・嘉禎元年の造営があった。冒頭に「任寛治例,以四十三年可為遷宮年限」と記されているが,平均して40年ごとの造営であった。平安期における神仏習合の風は両宮にもおよんでおり,天養2年3月28日付大伝法院陳状案には「彼権現之本縁,仏日現前,則明神増威光,法鏡国懸,則霊徳顕一天,故名日前・国懸」といい,「尋本地則尺迦・弥勒,是大日法帝之応化也」とする説がみえる(根来要書下/平遺2554)。日前国懸宮法華十講会縁起によればこれよりも古く,天暦4年2月に両宮社前で法華十講会が行われている(醍醐寺本諸寺縁起集/校刊美術史料)。神宮寺は,「続風土記」によれば境内東辺にあった。他に社僧として境内西側に貞福寺がある。両寺の成立は未詳だが,神宮寺は鎌倉期の史料には見えている。両宮の鎌倉期の社領は,嘉禎4年9月25日付日前国懸宮四方指によって当時の全貌がほぼ知られる(日前宮古文書/和歌山市史4)。これによれば,社領は北・東・南・西の順に,有間郷・永沼郷西方寺免畠・忌部郷・僧綱寺山峰筋・神前郷・福飯峰筋・舟尾郷・海担子洲・毛見郷海・三井之神山・少見堺・毛見郷海・担子洲於当東小島・甲崎於当東方堺・小宅郷西島西畠・大田郷西畠・吉田郷本畠新畠・本有本郷刀禰名畠・薢津郷若島畠の内側とされている。特に西側一帯は,和歌川氾濫原に臨む新開地であるため,記載が細かくなっているのが注目されよう。約半世紀後永仁3年の諸郷奉分田所当注文では(日前宮古文書/国立史料館蔵),秋月郷・新薢津郷・新永沼郷・本有真郷・忌部郷・有家郷・小宅郷・大田郷・黒田郷・神前郷・和太郷・田尻郷・内原郷・毛見郷・細尾郷の15郷が,北から順に列記され,各郷の詳細な社領得分が記されている。「続風土記」に見える毛見郷以下神宮本郷12郷(のち23郷に分割)と,鳴神郷以下神郷18郷の基礎は,鎌倉末期までに成立したといえよう。しかし,鎌倉における社領の形成と保持は,決してスムーズに進行した訳ではない。仁治3年3月26日付関東御教書案にあるように,神宮寺別当職をめぐって興福寺住僧と国造家が争ったり(春日神社文書),同年12月5日に京都の二条良実のもとで,紀氏女と日前宮国造・社司らが社領名田について争うなど,紀氏同族内での利権争いが活発になってきている(平戸記)。嘉元元年9月3日付伏見上皇院宣写は,永仁以来の和佐荘雑掌と両宮との「日前宮段米」をめぐる相論に関するもので(日前宮古文書/続風土記),その他にも高野山領等に課された造営役についてもたびたび相論が起こっている。室町期永享年間には,両宮末社とされる和佐荘高大明神(高積神社,和歌山市禰宜)と宮井川の用水権をめぐる相論を起こしているが(湯橋家文書/県史中世2),すでに神宮の力のみでは解決できず,もっぱら守護畠山氏の権力をたのんでいる。また文明12年に起きた雑賀荘との荘域境に関する争いでも,事情は変わっていない(日前宮古文書/続風土記)。古代以来,国造職は朝廷より補任される伝統があったが,平安末期から鎌倉期にかけては中断していたと思われる。しかし,鎌倉末期から戦国期に至る国造家の権威の回復と,それによる社領維持の目的から,天皇綸旨による国造補任・社領安堵が行われるようになった(日前宮古文書/和歌山市史4など)。57代国造俊文は,文保年中鳴神村に臨済宗寺院興徳寺を開創した。興徳寺は山城国大徳寺の末寺で,開山は大徳寺第2世徹翁義亨。天正年間に廃絶するが,江戸期に至るまでその近くに国造家の葬地があったといわれる(続風土記)。南北朝期~室町期に国造家が臨済宗に深く帰依している点で注目される。俊文の孫に当たる第59代国造俊長は,歌人として有名で「内裏九十番御歌合」「新後拾遺集」「新続古今集」等にもその名が見える。俊長は応永4年に従三位に叙せられ,翌年から応永12年まで侍従の地位にあるなど公卿に列し,地方出身者としてまれな待遇を受けた。俊長の時代は,中世両宮がもっとも隆盛をきわめた時代であったと考えられる。一方応永5年2月29日には足利義満が,また同7年4月28日には守護畠山基国が社領内守護不入を認めて,両宮を保護している(日前宮古文書/和歌山市史4)。また応永13年正月には,両宮造営が守護の力で催行されることが決定(教言卿記),この時には足利義満も「別御助成三千貫」を寄付している(同前)。永享7年11月25日,将軍義教は守護畠山持国に対して,両宮造替要脚を河内・紀伊・越中の3国の段銭でまかなうよう指示している(日前宮古文書/続風土記)。文明19年正月に両宮社殿が焼亡(実隆公記文明19年正月23日条)。元亀3年5月吉日付日前宮炎上日記によれば,天文2年3月23日に「秋月郷神宮寺」からの出火が飛火して社殿炎上,また永禄3年2月10日にも社内御供所からの出火で焼亡した(日前宮古文書/和歌山市史4)。「兼見卿記」元亀3年閏正月23日条に両宮仮殿造営のことが見えるが,天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めで再度焼失し,社領もことごとく没収された。国造忠雄は神体を奉じて難を逃れたが,天正15年には羽柴秀長の命によって目代桑山修理大夫が仮殿を再建している(続風土記)。このように戦国期以降の造営はすべて仮殿で,両宮が大きな危機に直面していたことを示している。「続風土記」によれば,古代~中世の両宮神官は,国造家を頂点として白冠・人母・行事各2人の6神官,以下中臈14人,下臈36人の他,青侍・楽士・職工などが多数いた。国造を除く他の神官に関する史料は少ないが,とくに注目されるのは与多職である。「中右記」天仁2年11月6日条に「従田中乗馬者,有載白宝冠,大驚問之,是日前・国懸之宮与多云々,年来聞名之者自然見之,誠以珍事也」と見える(大成)。与多はおそらく禰宜職と同じ神官と思われ,平安期には都にもその名が知られる者であった。この与多は,県内では伊太祁曽神社に与太,荒川荘三船神社(那賀郡桃山町)に与多職が見え,紀伊独得の神職名として知られる。建治元年の奥書をもつ「名語記」にも日前宮の与多が記されている。与多はのちに白冠と名を変えるが,寛正4年4月16日付の上白冠新秀宮籠日記には,同神官の具体的な役割が克明に記録されている(日前宮古文書/続風土記)。与多(白冠)は,両宮内では国造につぐ実力者で,応永30年4月日付日前宮下白冠千顕目安案では,千顕が社家領36名の内18名の領有を主張している。国造側は年未詳紀伊国造家雑掌申状写の中でこれに反論を加えているが,そこで,白冠職は仁平年中に祝良秀を改易して春日氏をこれに補任してから千顕で10代としている(同前)。長禄4年正月日付日前国懸大神宮社人等申状には,当社神事は年中に380余度ありとしている(同前/和歌山市史4)。毎年9月の臨時祭は,康治元年8月21日に国造良雄が始めたと嘉禎2年御祭記にある(同前/国立史料館蔵)。文明5年9月日付日前宮神事流鏑馬定文などによって,室町期には社内の青侍らによる流鏑馬の盛んな様がうかがわれる(同前/和歌山市史4)。他には,天文10年正月21日付日前宮井祭頭役次第に見える井祭があり,これは秋月郷を1番として以下有家・田尻・大田・黒田・津秦・神前・新有間・忌部・有間・和田・小宅の12郷が,順に頭役を勤めている(同前)。中世まで行われていた大小神事も,近世には多くが退転したらしい(続風土記)。元和5年に入国した徳川頼宣は,寛永4年に,社地・境内を旧に復すとともに仮殿を再建した(続風土記)。寛永19年4月日付の両宮および社領郷内寺文書上には,当時の社殿の規模を詳しく記している(日前宮古文書/国立史料館蔵)。本社は2社,「末社之上首」中言社2社,末社60社,院御所,女客殿,男客殿,神楽所,権現堂,御経蔵,酒殿庁,御供所,伶人庁,御鉾倉,茶屋,舞屋(四条猿楽・白拍子等有之とあり),護摩堂,番屋,青侍庁,芝原庁,惣門,反橋,鳥居などがあり,また仏寺として神宮寺と貞福寺があった。天正年間に秀吉に没収された社領は,慶長6年に浅野氏が15石を寄付,のちに徳川氏が40石余としたが,文化5年には加増されて300石に定められた(続風土記)。明治4年には,両宮ともに官幣大社に列格。大正15年に現社殿が建造された。

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