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本町①
【ほんまち】


旧国名:紀伊

(近世~近代)江戸期~現在の町名。1~9丁目がある。江戸期は和歌山城下内町のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる。和歌山城丸の内と城下内町をつなぐ京橋から北へのびる大手通り沿いに位置する。京橋北詰から北へ1~8丁目と並び,9丁目は東に折れて大手本町御門に至る。浅野氏の時代,和歌山城東部の広瀬通丁から和歌川に架かる大橋にむいていた東西方向の大手を,北部の城内一の橋から京橋を経て東西の堀川に直交する南北の道筋に変更した。この道路を城下町の基線として町割を施行したと思われ,町名はこのことに由来する。3丁目と4丁目の丁境辺りは浅野氏時代の搦手口にあたると伝え,「文久城下町図」は同地付近に「城ノ口」と記して通称されたことをうかがわせる。また浅野氏の時代には,8丁目に惣門が置かれていた(諸事覚帳/浅野家文書)。同丁には幕末まで三階屋敷が残り,「名所図会」に「前国主浅野家居住のとき,大手見附の櫓ありしところなれば,その遺蹟をとどむ」と見える。寛永10年紀ノ川大洪水のため8丁目の大手脇石垣が崩れ,それを機に寺町(のちの元寺町)を吹上に移して跡地一画を9丁目とし,本町御門を築いて城下町の大手を整備した(祖竹志/和歌山市史6)。本門御門は冠木門で,もとは大手御門と呼ばれたが寛政8年改称(日録/田中家文書)。本町御門同心20人が門を守衛。門外は広小路と呼ばれる広場で,北部に水牛池があった。本町は裏行17間の路線式町割で,5~7丁目東側と4~6丁目西側は地尻で武家地と接した。また大店が多く,宝暦11年では22名の町大年寄中,1丁目の高松十次郎・湯川庄右衛門,2丁目の山本勘兵衛・前島彦太夫,3丁目の岩橋太平次,4丁目の竹田十蔵,5丁目の江川太左衛門,7丁目の佐竹九郎右衛門・林助十郎の計9名がいた(光明寺過去帳裏書/光明寺文書)。京橋北詰の1丁目には周囲を黒板で囲った火の見櫓・番所・札場が設置され,丸の内への庶民の通行が許されなかったため,1丁目から西へ寄合橋に通じる四丁町(駿河(するが)町・福町・卜半(ぼくはん)町・寄合町)の往来がにぎわいを見せた。また1丁目西側から駿河町・福町・万(よろず)町・西ノ店・南大工町・東鍛冶屋町にかけての一帯では蔬菜市が開かれた(名所図会)。2丁目には天保4年に山形屋を称する毛綿屋が4軒あった(毛綿屋仲間御湯講名前帳/田中家文書)。うち山形屋孫助は江戸積毛綿問屋株を所持していたが,慶応3年番所に引き上げられている。1丁目と2丁目の境を東へ入ると雑賀(さいか)橋に至る横丁があった。本町筋の東部は南北の道幅3間の道路に各戸の門戸が開かれ,直交する横丁は2間と道幅も狭く,塀が続く寂しい通りであった。文政13年匠町からの出火で類焼した際,北町居住の町大年寄和田九内が横丁に門戸を開くことを出願。これが商店街形成の契機となり,呉服古着類をつり下げて陳列したため,紀州方言でつり下げることをぶらくるということから,ぶらくり丁と通称されて繁盛した。3丁目には寛政4年医学館が創設されたが,間もなく雑賀屋町へ移った。4丁目東側には同年心学講釈所修敬舎が開設された。同舎は30帖敷の大広間や控室などを持ち,慶応2年から心学講話だけでなく素読・会読も始め,庶民教育に大きな役割を果たした。藩は幕末には町大年寄を修敬舎係に任命してその経営にあたらせた(町大年寄御用留/竹内家文書・平田家文書)。明治2年の一時期和歌山内町郷学所に利用され,同30~43年は休講したがその後再開して大正末年まで活動した。4丁目には俳人垂井如水や御用仏師伊藤充好が居住。国学者本居大平も文化6年ごろ居住していた。5丁目と西旅籠(にしはたご)町の境付近に茶屋封所と呼ばれ藩財政に深くかかわった茶屋がいた。茶屋は元和7年紀州貢納金改方を仰せ付けられてから代々小四郎を名乗り紀伊徳川氏に仕えた。茶屋の東には慶長5年浅野幸長の設置と伝える時鐘屋敷があり,岡山時鐘堂とともに藩士の登城や時報の鐘を打った。大正6年始成尋常小学校敷地拡張により破却され,時鐘は和歌山城天守閣に移された。5丁目東側には酒造業の新屋江川太左衛門家があり,小西瓜・茄子・瓜類の粕漬が有名であった(名所図会)。6丁目を西へ入る横丁は雄の芝(小野が芝)と呼ばれ,小野小町が和歌浦詣での時に休息した所と伝える(名所図会)。小町ケ辻ともいう(紀街のながめ)。8丁目と9丁目には職人が多く居住し,安政2年8丁目苧座以外の苧商の禁止や,嘉永5年9丁目座外での7寸以上の挑灯売りさばきの禁止などから(町大年寄御用留/県史近世2),職人の座が結成されていたことがわかる。また9丁目の傘製造は,「名所図会」にも描かれ,明治以降も盛んで大正年間に全盛をむかえ,8~9丁目でその数160軒に及んだが,昭和期に入って衰え,昭和32年残っていた2軒も廃業した。明治6年には,1丁目の戸数39,男74・女83,2丁目の戸数52,男108・女107,3丁目の戸数35,男75・女74,4丁目の戸数60,男109・女115,5丁目の戸数85,男155・女159,6丁目の戸数100,男165・女181,7丁目の戸数46,男77・女87,8丁目の戸数33,男62・女63,9丁目の戸数64,男120・女123。大正2年には1~9丁目あわせて407戸・2,297人。明治6年1丁目京橋北詰西側に里程元標付設。同標によれば,東京160里24町,大阪17里4町。同42年和歌山水力電気会社により和歌山市駅~和歌浦間の市内電車開通,それにより1~4丁目の道路が4間幅から15mに広げられた。1丁目には明治45年米屋町から紀陽貯蓄銀行が移転し,大正11年紀陽銀行と改称した。また大正10年には紀伊貯蓄銀行創立,昭和3年匠町へ移転した。同5年京橋北詰西側に和歌山瓦斯会社が新社屋を建設するなど,和歌山の中心街として発展。2丁目では,明治5年県下初の地方紙和歌山新聞が発行され,販売所を付設して知新堂と称した。同6年三井組出張所設置,同10年三井銀行出張所と改称したが,同44年閉鎖。明治42年浪速銀行支店開設,大正9年第十五銀行和歌山支店と改称。同11年和歌山信用金庫開設。明治33年創立の呉服太物商合名会社松尾商店は発展して昭和7年丸正百貨店となり,同12年増改築して商店街の中心的地位を築いた。同19年には三井銀行支店が置かれたが,同29年十番丁へ移転した。3丁目には明治12年克終小学開校,同17年橋街小学分教場となったが,同25年独立して内町東尋常小学校と称し南桶屋町へ移転した。なお青竜社を結成した日本画家川端竜子は明治18年呉服商俵屋川端正兵衛の子として生まれた。5丁目には明治6年学制による県下最初の学校として始成小学開校。同校は校舎に茶屋封所の建物を利用,校門脇には三階楼が残っていた。なおその建物は同34年校地拡張により破却された。明治22年始成幼稚園を併設したが,大正6年和歌山幼稚園に合併された。なお同校は昭和15年火災にあい,同17年元寺町へ移転した。6丁目には明治8年私立英学校自修舎が紀伊徳川氏の援助をうけ設立された。同舎はのち九番丁へ移転したが,明治初年の洋学熱は高く盛況を呈したという。昭和20年丸正百貨店の周辺,1~2丁目と万町・南大工町で1,633坪が堅牢建築物付近疎開空地帯として強制疎開が実施されたが,7月9日空襲により町内は全焼した(和歌山市戦災誌)。廃墟の中に百貨店の残骸が長く残っていたが,同28年再建,周辺商店街も徐々に復興し盛況を取り戻した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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