南片原
【みなみかたはら】

(近代)明治5年~現在の町名。1~2丁目がある。江戸期は和歌山城下広瀬のうちの武家地。明治5年3月武家地に町名が付けられることになり,南片原町と称したが,同年6月南片原とした。明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる。和歌山城の南東部に位置し,東西に走る道路の北側のみ武家地,南側は畑地であったため,南片原と呼ばれた。なお広瀬片原とも俗称された(和歌山史要)。明治5年成立に際し南北に直交する雑賀(さいか)道から西部は1丁目,東部は2丁目と丁目が付され,また無門丁の一部を編入した。幕末,その西部に菊之間詰水野多門(3,000石)・新御番頭間宮一八(350石)など9家,東部に小十人頭駒木根八兵衛(450石)・中奥詰松本甚五左衛門(250石)・大御番興津十右衛門(175石)など15家の屋敷があった(安政城下町図)。明治6年には1丁目の戸数17,男40・女41,2丁目の戸数21,男44・女44。同21年県立獣医養成所が創設されたが,同26年閉鎖。明治年間,2丁目から吹屋丁へ渡船があり,相引きの渡しと称された。同35年海草橋を架け賃取橋としたが,大正14年渡賃徴収を廃止した。大正2年の戸数30・人口156。昭和5年1丁目に広南尋常小学校創立。同20年7月空襲のため全町焼失の被害をうけ,同校も焼失し,同22年広瀬小学校(広瀬中ノ丁1丁目)と合併した。昭和19年一部が島崎町1~7丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7173682 |