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元寺町
【もとでらまち】


(近代)明治5年~現在の町名。1~5丁目がある。江戸期は和歌山城下宇治のうちの武家地。明治5年武家地に町名が付けられることになり成立。明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる。町名は,当地が浅野氏時代の寺町にあたり,寛永年間徳川氏の手により吹上へ寺町が移動させられたことに由来する。寺町移動後,当地は武家地となり,真田堀とも呼ばれた北新町川西岸沿い,北の本町御門前広小路に接する御厩まで武家屋敷が並んだ。西部は中ノ店中ノ丁・中ノ店北ノ丁・住吉町・東旅籠(ひがしはたご)町・西旅籠町と本町のうち5~7丁目と町人町が並んだ。「安政城下町図」によれば,南から,1丁目域に御目付三宅源五左衛門(450石)・新御番頭吉村八郎右衛門(900石)・御鎗奉行山本権左衛門(300石)・御徒頭小笠原庄太夫(300石)など7家,2丁目域に大御番組頭夏目三郎大夫(200石)など4家,3丁目域に大御番小野田八左衛門(250石)・御供番関口六郎など9家,4丁目域に寄合安藤札右衛門(300石)・同長谷川甚兵衛(325石)など3家,5丁目域に中奥詰橋爪紋兵衛(150石)・御書院番格斉藤源蔵(175石)など5家と御厩があった。また同図によれば,北新町川南部に架かる甫斎橋から北方御厩までの川岸には松樹を植えた土塁が続き,途中に教仙橋が架かっている。甫斎橋は寺町橋,また東詰北側の酒屋駒屋に由来して駒屋橋とも呼ばれ,元和年間山本寛太夫甫斎の架橋と伝える。長さ11間3尺余・幅1丈2尺余(町中橋々間数之事/田中家文書)。教仙橋は慶誓橋とも呼ばれ,元和年間佐武慶誓が架橋したと伝える。長さ10間4尺・幅2間(同前)。両橋の長さから現在は狭められた北新町川の堀幅を知ることができる。西岸の土堤はすでに浅野氏時代に築造されており,北新町川は城下の惣構として,また洪水に備える悪水除けとして開削されたと思われる。明治6年この土堤は撤去され民間に払い下げられた。同年には1丁目の戸数19,男48・女39,2丁目の戸数16,男32・女36,3丁目の戸数6,男12・女14,4丁目の戸数15,男30・女32,5丁目の戸数14,男27・女29。大正2年には総計287戸・1,361人。なお明治4年熊野捕鯨の研究家中根七郎が1丁目で生まれている。町域のうち1~2丁目は各種興行の盛んな地であった。同11年歌舞伎・芝居興行の紀国座が2丁目に開場,同40年ごろ映画に転向したが,昭和12年火災で焼失した。1丁目には明治39年遊楽座,同43年電気館(のちの和歌山劇場)が開場,大正5年弁天座が三番丁から移転して開場した。なおいずれも昭和20年7月の空襲により焼失した。また明治43年映画館明光クラブが2丁目に開場したが,3~4年で廃された。昭和4年1~2丁目の道路舗装完成。同5年11月5丁目で大火があり,工場・住宅19戸を焼失。同5~6年ごろ1丁目東部の和歌川沿岸が埋め立てられ,築地と呼ばれた。同13年雑賀(さいか)橋西北詰に文化映画・ニュース映画専門の文化ニュース館開場。同20年1丁目は避難疎開空地帯に指定され,2回にわたって強制疎開が実施されたが,同年7月空襲により1~5丁目全町を焼失した(和歌山市戦災誌)。第2次大戦後,同21年築地映画劇場,同25年国際映画劇場,同26年日の丸劇場と相次いで開場し,元の繁華街への復興は早かった。また北新町川も川幅を半分に埋め立て,両岸に商店街が形成された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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