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越中町
【えっちゅうまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は倉吉陣屋町の1町。陣屋町の西部に位置し,東は西岩倉町,西は広瀬町,南は鍛冶町と接する。町名の由来は,戦国期の倉吉を支配した南条氏の家臣山田越中の居館があったことにちなむと伝えられる。寛延年間の倉吉御陣屋図によると,間数101間半・竈数41軒。明治初年の戸数96・人口315(県戸口帳)。目代堀尾喜兵衛の支配下にあった(県史4)。元禄8年の大火にあい,また天保7年にも出火している(倉吉町誌)。宝暦11年幕府巡見使派遣に伴い,費用負担が甚平・六平・宇左衛門に割りあてられて後に銀銭が支払われ,また明和9年京都秤座神氏の手によって秤改めが行われ,岩見屋清兵衛は吟味役を申しつけられた(倉吉市史)。天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控によると,角屋重右衛門は釘34個・塩60俵・稲扱き20個(240挺)を出荷し煙草16丸を入荷,阿部屋兵蔵は稲扱き8個(96挺)を出荷し,角屋百蔵は煙草30丸・小豆5俵を入荷し,紺屋金助は煙草153丸を入荷,岩見屋儀兵衛は釘66個,岩見屋利兵衛は塩264俵を出荷していた。また,間口1間分運上銀80匁が慶応2年には160匁となった(倉吉市史)。ほぼ中央を上広小路が通っているが,版籍奉還に先立つ明治2年の藩治組織の改正で,上広小路の北真向いに郡政所が置かれた。同7年には郡役所の跡地に一貫小学校が開設された。同校の教員数4,生徒数70(男59・女11),授業料月1円32銭3厘(県史近代5)。同22年倉吉町,昭和28年からは倉吉市に所属。近世から大正期までは職人町的性格を有したが,昭和期に入ってからは住宅・商店の混在地となっている。世帯数・人口は,昭和35年187・707,同55年174・493。現在通称地名の地域であるが,将来正式な行政地名となる予定である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7174460