100辞書・辞典一括検索

JLogos

48

皆生温泉
【かいけおんせん】


米子市皆生~上福原にある温泉。明治初期皆生海岸の沖合いから発見されたといわれる(県温泉総覧)。明治17年頃沖合い200mのあたりで土地の漁師が海底から「泡の場」と呼ばれる湯が湧いているのを確認。その後日野川が流出する土砂により年々浅くなり,「泡の場」が次第に陸地に接近することに目をつけた地元の伊島源太郎が温泉掘削を申請していたところ,同33年9月4日,上福原の漁師山川忠五郎は皆生灘西新田の海岸浅瀬に自然湧出している温泉を発見したのが当温泉の誕生である(皆生温泉案内)。その後20年間,個人経営・村営と計画変更し,砂湯や小規模浴室など経営したが維持困難となった。ところが米子町の有本松太郎はこの地を一大楽園となし浴場・市街地を建設して地方発展に尽くそうとし,大正10年皆生温泉土地株式会社を設立,同年1月15日に福生村長八田善太郎との間に土地売買契約が成立し,本格的に掘削を進め,泉温72℃・湧出量毎時140石の温泉を掘り当て旅館に配湯した(同前)。翌11年には大浴場を完成させ,温泉市街地の造成を行い,京都市街地にならって三条通り・四条通りなどの直交街路をつくり宅地分譲を進めた。同13年には米子駅と皆生を結ぶ電車を米子電気軌道株式会社によって開通し,浴客を運んだ。当時,旅館は11軒を数え,浴客の増加を図るため,競馬場・盆踊り大会・パラシュート降下演技などで人々を集めた(県史近代1)。「山陰の熱海」と呼ばれ,海浜温泉として,白砂青松の広い海岸をもち,弓浜半島の基部に位置し,美保湾と島根半島を望む。南に大山(だいせん),西に松江・出雲とすぐれた観光ルートの中継拠点米子市の保養観光地として適地にあるといえよう。一方,冬の季節風による海岸浸食はしばしば皆生を危機に陥れ,昭和10年頃一夜のうちに13mも浸食され,11旅館のうち7旅館が波に洗われ,やがて海中に没するという災害に遭った(鳥取百年)。昭和20年代には大正13年当時に比べ海岸線は約60m以上後退し,1万2,000坪が海中に没してしまった。このため県は同25年漂砂対策委員会の手により,海岸線に直角の防砂堤14本をつくったが十分でなく,同30年から海岸に並行する防潮堤を構築し,自然に陸繋砂州を造成させることに成功し浸食を防いでいる(県史近代1)。泉質は浅層がアルカリ性単純泉,深層が含塩化土類食塩泉で,温泉数16,うち利用動力源泉数12・未利用源泉数4,平均泉温75.0℃・湧出量毎分3,439ℓ(県温泉総覧)で泉温・湧出量は県下最高。年間利用客は,昭和29年の11万人に比し,同43年には10倍の110万2,000人となり,同50年には134万1,200人と増加してきたが,同55年には124万人と伸び悩んでいる。旅館数も大正11年の11軒から昭和44年には37軒,同55年には厚生施設も含め59軒と増加。同38年頃から高層ホテルの建築が目立ちはじめ,山陰最大の近代的温泉街が出現し,収容能力7,000名を誇っている。またヘルスランド・水族館・プール・レジャーセンターなどもあり,施設の整備は年々進んでいる。温泉の分間湧出量も県下の36%(昭和45年)を占め,他に比べ圧倒的に多く,旅館への配湯は専門の皆生温泉観光株式会社に任せ,需要増に合わせて新しい温泉を掘削して提供するといった方法をとっている(県史近代1)。温泉利用施設は旅館48・厚生施設11・医療施設3・共同浴場3および個人16(県温泉総覧)。こうして不景気・海岸浸食など幾多の危機を乗り越え,地の利を生かしながら,企業意欲旺盛な米子商人の伝統によって山陰最大の大温泉街へと発展してきた。豊富な温泉も湧出能力は低下しつつあると予想され,汲上量を抑制しながら,源泉開発に十分留意し,今後は沖合いの開発に取り組むことの必要性が指摘されている(県温泉総覧)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7174719