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最勝院
【さいしょういん】


鳥取市湯所町にある寺。高野山真言宗。山号は医王山。本尊は薬師如来。天正年中,池田輝政が岐阜在城の時の祈願所であった宝蔵院が,池田氏転封のたびに随従。岡山藩主の頃に宝寿院と改称していたものが,寛永9年の岡山藩主池田光仲の鳥取入国に伴い,城下寺町に移転。宝永6年住職上京の際,仁和寺御所から院家最勝院に任じられてより,現寺号に改称(藩史4)。江戸期を通じて,仁和寺末寺であった(同前)が,現宗派への帰属の年代は未詳。本寺は高野山の多聞院,藩家より厚遇される「八か寺」の1つに数えられ,領内真言宗の触頭として宗内の取締りに当たり(同前),新見村豊乗寺,新興寺村新興寺等7か寺の末寺を擁していた(因幡志)。寛永16年大般若経の城内祈祷が天台・真言の寺院に命じられ当院もその1か寺であったが,貞享3年改めて祈願所とする命を受ける。以来毎年正月・5月・9月の各月3日に,当院内において祈祷を修し,元禄8年3月より賜物として360匁,祈祷料銀5枚を給付。正徳3年からは当院において長日護摩を修することになり,護摩料年50枚を給わる。享保元年この護摩料に代えて200俵を与えられ,そのほかの祈祷のたびに賜物を給わっていた(藩史4)。同5年の石黒火事で,諸堂をことごとく焼失。同12年,本堂再建のための「両国(因幡(いなば)・伯耆(ほうき))町在相対十万人講」を許可され,仮堂の建立に至ったが,元文2年大破(同前)。再び本堂などの再建を志し,資財を確保するため福引や見世物興行の許可を得て再建は進行。しかし寛保元年再度火災にかかり焼失。同2年また興行許可を得ているが,宝暦12年,藩の財政粛正のため護摩料が100俵に半減(同前)。文政年間に入っても本堂は再建されなかった。その後も藩から在方三歩の貸米に200石を給され,その利米を得て修繕費とした(同前)。明治維新後,明治3年湯所養寿院跡に移転(鳥取市史)。昭和27年の鳥取大火で堂宇を焼失し,現在復興中。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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