末恒村
【すえつねそん】

(近代)明治22年~昭和28年の自治体名。はじめ高草郡,明治29年からは気高(けたか)郡に所属。伏野・三津・内海・小沢見(こぞみ)・内海中・御熊の6か村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成。村役場は伏野に設置。北は日本海に面し,千代(せんだい)川河口から西に連なる砂丘地帯。東西・南北ともに5km余,面積11.85km(^2)(昭和25年国勢調査)の地で,地内北側を旧伯耆(ほうき)街道(米子往来・浜街道)が海岸線に沿って東西に通過する。谷あいの水田・丘陵畑・海岸沿いでは近世に開拓されたという砂丘畑を耕す複雑な地形をもち,海岸沿いでは磯漁や湖岸の淡水漁も行う半農半漁の地域が多い。明治24年内海・伏野両小学校を統合して村立末恒尋常小学校を創立,同42年高等小学を併置し末恒尋常高等小学校となる。明治22年吉岡警察署伏野駐在所を設置。兵役は明治31年鳥取40連隊設置によりその管下となり後に松江連隊管轄に移る。大正10年地内の大半に電灯を点灯。昭和10年末恒郵便局が開設。大正中期頃から乗合馬車,ついでバスが浜街道を運行したという。明治年代から刈桑による養蚕が次第に盛んとなり,砂丘地や丘陵地の畑が次第に桑畑となり,同30年代からは主産業となった。昭和2年の産額は米2,835石余・麦244石余・繭5,775貫余・甘藷630貫余,そのほかスイカ・ダイコン・ソラマメ・エンドウ等が主なものとしてあげられる。漁業は漁船数116隻・魚網9統(地引網か)とある(末恒村誌)。昭和20年からは,サツマイモ・カボチャ・麦などの代用食料,蔬菜類生産が砂丘畑で盛んとなった。戸数・人口は,明治40年294・3,697。世帯数・人口は,大正10年264・1,725,昭和2年265・1,721,同9年270・1,642,同27年315・1,971。「末恒村誌」によれば,昭和2年の職業別人口は,農業258戸・1,079人(男507・女572),漁業28戸・28人(男のみ),商・工業9戸・12人(男10・女2)。同28年鳥取市の一部となり,村制時の6大字は同市の大字に継承。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7175678 |