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鳥取城跡
【とっとりじょうせき】


鳥取市東町にある城跡。標高264mの久松山に位置する。現在の城跡は慶長5年関ケ原の戦の後,鳥取城主となった池田長吉が大改築した城跡が中心となっている。久松山に鳥取城が布施天神山城の山名氏の出城として築かれたのは天文14年2月で,当初は家老が輪番で城を守ったが,その後,若狭武田氏の一族が定番となり,城を整備した。その後武田氏は山名氏に叛意を明らかにし,両氏の抗争が続いた。元亀3年8月,布勢の山名豊国は山中鹿介の援けをかりて武田高信を討ち翌天正元年に布勢より鳥取に移った。この頃,毛利氏の勢力は次第に東漸し,鳥取城もその麾下に属した。但馬を攻略した豊臣秀吉は天正8年6月に第1回の鳥取攻めを行い,山名氏の人質をようしている鹿野城を手中に収め,豊国に降伏をせまった。豊国は家臣の意見を排し,秀吉に降り,鳥取城は安堵された。秀吉が姫路に軍を返すと,城内空気は硬化し,豊国はついに城を追われた。秀吉はこの事あるを予見し,若狭より商船を廻漕させ,鳥取周辺の米を高価で買い占めさせた。豊国を追った鳥取城では城将に毛利の重臣吉川一門の勇将を求めたので,吉川元春は石見福光城主の吉川経家を城主と定めた。経家は同9年3月18日に入城し,秀吉の来攻に備えたが,城内には1万5,000の兵が約2か月籠城する程度の兵糧しかなかった。経家は食糧の補給に努めたが,意のままにならず,ついに,第2回目の秀吉の攻撃を受けることになった。秀吉は6月25日姫路城を発ち,7月12日鳥取城を完全に包囲した。世にいう「鳥取城の渇殺」である。城中の兵糧は日とともに欠乏し,山中をさまよっては果実や草木皮まで食い尽くすこととなった。経家は秀吉の勧告に応じ,自刃して城兵を救った。鳥取城攻めに功労があって,新しく鳥取城主になった宮部継潤は,山麓を整備して,現在の北の御門跡を大手とし,城下町を整えた。継潤は慶長元年隠居し,長煕が家督をついだが,関ケ原の合戦で西軍に属し,領地を没収され,南部に追放された。新しく鳥取城主となったのは池田長吉(輝政の弟)で城地が狭隘なため修築を計画し,堀氏を普請奉行に命じ,慶長7年から4年がかりで大改築を行い,現在見るような城郭が完成した。縄張りはまず山上の丸(山頂の郭),ついで本丸・二の丸・三の丸・出郭からなる。本丸には天守櫓・月見櫓・車井戸があり,東西70m,南北32mの長方形で,周囲に高い石垣をめぐらす。石垣は3~8.3mにも及び,天守櫓台には18m四方の穴蔵があり,本丸の西北隅の最も展望のきく位置にあたる。石垣の高さは西側で9.6m,東側で4.3m。月見櫓は東南隅に設けられ,多回櫓はその東にあって走櫓によってつながれていた。天守櫓は貞享3年3月の落雷で柱が裂けたが,建物の損傷は軽く,さらに6年後の元禄5年11月11日の落雷で炎上した。天守櫓は天正元年に布勢の天神山城より移された3層の櫓であったが,池田長吉の鳥取城大改築の折,2層に改築された。古図では天守櫓は瓦葺ではなく,柿葺(こけらぶき)で,慶長初期の建築様式を示している。山下の丸は中腹から山麓にかけての郭の総称で,地形に従ってほぼ4段の高低にある郭で形成されている。東隅の中腹の一郭を天球丸,下って北方の一郭を二の丸,その東南,天球丸直下の郭を三の丸という。三の丸の外郭に馬場や御米蔵があり,その外側は内濠となる。二の丸は,中央に藩主の居館があり(寛永9年から天保年間にかけて),本丸ともいわれたが,一般には二の丸と称せられた。二の丸の建物は享保5年に焼失するまで,池田長吉の頃の築造のままであった。この居館に長吉・長幸父子,光政・光仲・綱清・吉泰らが居住した。西南隅の三層隅櫓は天守櫓焼失後は鳥取城を象徴する建物となった。山上の丸の天守櫓と建築様式が同様で慶長初期のものといわれている。享保5年の大火で焼失したが,古例により復旧され,明治12年陸軍省の手で解体された。東南隅に走櫓,東隅に菱櫓,東北に鉄(くろがね)御門があり,二の丸の正門である。南北45m・東西108m,石塁惣廻り228mの一郭であったが,嘉永元年2月に西北の山麓に36m四方の張り出しが行われ拡張されている。天球丸は,池田長吉の姉で若桜(わかさ)城主山崎左馬允の夫人天球院が,山崎氏を去って長吉のもとに身を寄せ,ここに住んだのでこの名が生まれた。東側に三重櫓があり,郭の上り口には御風呂屋御門があった。享保5年の大火で焼け,その後長く放置されていたが,池田慶徳の代に,跡地に稽古所が設けられ武術の調練が行われた。この天球丸は二の丸の東南にあたり,90m・54mの規模で,周囲の石塁の総延長は147mであり,一段高い郭である。三の丸は現在は鳥取西高校の敷地であるが,もとの侍屋敷,池田光仲の代には若君の居館があり,老公の隠居所があったが,享保3年に新たに郭を築いて拡張したため,藩主の居館が造られ,二の丸と呼ばれるようになった。石垣の総延長は376mで,南側の走櫓はいわゆるお櫓評定が行われた所で,家老たちが日々執務した。弘化年間に旧二の丸に新御殿ができたのちは,ここは従来通り三の丸と改めたが,俗に「お城」とも呼んだ。三の丸の門は太鼓御門で,多聞に大太鼓を備えて時を報じたのでこの名がある。濠は幅29mで長さ390mに及んでいるが,西側は埋められて北中学校の敷地となり,東側も埋められて県営鳥取武道館の敷地となっている。また,門は3か所あり,正面の大手門が中之御門で,西に北之御門,東南に南之御門がある。北之御門・南之御門が搦手で,武士の登下城には南之御門が使用された。城下の形成は元和3年3月の池田光政が姫路より移封されたときに土をおこし,現在の鳥取市街地の町割はこの時に行われた。光政は在城16年で寛永9年備前岡山城に移り,岡山城主池田光仲が鳥取に移った。以来池田氏の居城として幕末に及び,維新後存置すべき城郭に指定されたが,明治12年に解体撤去された。




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「角川日本地名大辞典」
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