100辞書・辞典一括検索

JLogos

78

法勝寺町
【ほっしょうじまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は米子城下十八町の1町。法性寺・法正寺とも書く。城下の北東部,城をL字型に囲む外濠が直角に曲がる地点に位置する。本通りに面して東西に伸びる町人地で,東端は本通りに直交する山陰道に接し,その交点にあたる。町名の由来は会見(あいみ)郡法勝寺城下の人々が移住してきたことにちなむ。文化元年の下札では生高71石余,物成米42石余。幕末期の惣間数は107間4分,安政6年の調査では124間9分,ほかに西念寺小路34間半,市政所御備銀144匁。元禄8年の竈数は家持22軒・借家80軒。明治2年には表竈47軒・裏竈52軒,人高361人(米子市史)。明治初年の戸数109・人口389(県戸口帳)。町禄(町の専売権)として唐津物・古物商が許され,現在も陶器や呉服の老舗が多い。町の外側に慶長年間尾高より移った真宗専修山西念寺があり,古建築の四脚門を残す。本通りに面した各商家は間口が狭く,奥行が長いが,これは間口の幅で課税(軒間銀)されたためである。明治16年から同22年まで米子町第1連合役場(20町)が開設。明治18年米子港から当町を経由して日野郡方面に至る道路が整備されて交通が至便となり,また同35年当町の南方に米子駅が開設されにぎわいを増した。そのため旧山陰道と本通りの交差点に位置する当町は当時一番の繁栄をきわめ,この四つ角は角の薬屋の名をとって通称「増屋の角」と呼ばれた。この店の製造した「米子増屋の神霊丹」は小児薬として有名であった。明治21年の戸数は農業20戸・商業57戸・雑業25戸の計102戸,地方税109円余・町費185円余・申合わせ費23円を納める(米子市史)。同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属。明治30年中国貯蓄銀行,大正元年山陰実業銀行が創設。大正初期には醤油・呉服・履物・陶器などの店があった。当町の繁栄は昭和期になっても続き,昭和2年法勝寺町本通り筋を家居税賦課1等級に位置づけている。第2次大戦中強制疎開戸数は居宅25・その他18。戦後しばらくは露天商による闇市が開かれた。昭和26年本通りでは全国初の土曜市が始まった。同32年アーケード建設,同47年改修とカラー舗装化し面目を一新して,米子第1の商店街を構成するに至る。世帯数・人口は,昭和30年109・541,同40年98・421,同50年90・308。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7176878