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平田町
【ひらたちょう】


旧国名:出雲

(近世)江戸期~明治22年の町名。出雲国楯縫(たてぬい)郡のうち。江戸期は松江藩領。正保4年「楯縫郡平田町地銭帳」(広島大学蔵)によって町場の成立が知られる。延宝9年,屋敷数173軒,総面積1万833歩,目代1人・年寄3人・町下役人などがおり,茶屋が置かれていた。寛政4年の「万指出帳」によると,「両町地銭」とあり,町を船川の南北に分けて考えていたと思われる。このとき,本町・灘(なだ)町・宮町・袋町・片原町・新町の6町と,5つの小路があった。灘町に船着場があり,舟運従事者のほか,職人・商人で住民が構成されていた。寛政4年家数293・竈数456・人口1,743,文久2年人口2,540・竈数712。万治2年・元禄元年・宝永元年・同7年・享保8年・同16年・寛政3年・文政2年に火災が起こっている。「雲陽誌」には「市ありて時の物をあきなうなり,毎歳正月十四日竹くらべとて,橋をへだて両町の児童,大竹1本ずつ出して長短をあらそう。竹の長き方勝ちたりとて,同音に笑いてしりぞく,是古よりの戯とす」と竹くらべの風習を伝えている。18世紀後半から雲州平田木綿の声価が高まり,寛政12年越後屋(三井)がこの町に進出して買付けをはじめ,文久~慶応期にピークに達した。木綿市は3・8の六斎市で,文政5年の取引額22万反,文久2~3年には60余万反にも及んだ。明治に入って木綿市は衰退し,取引額は明治18年には28万反となった。このうち15万3,000反は平田町へ仕入れ,12万7,000反は宍道(しんじ)・直江・今市町の商人が,平田町市場へ出張して買い入れたというから(平田町村織物景況),この付近の中心市場であったことがわかる。明治4年島根県に所属。同5年の人口3,058,職業別戸数は商業330・工業147・雑業360・農業25・医者16・僧神官士族6。明治7年の戸数806のうち家持298・借家508・社寺5であった。また,明治維新には,第2次長州征伐にあたって,藩主定安の当町までの発向,西園寺鎮撫使の宿泊・通過,さらに萩の乱に敗れた前原一誠が,護送の途次に1泊し,一幅の書を木佐家に残した。なお,明治6年3月2日開校した平田小学校は,出雲国内の小学校開設の最も早いものであった。明治22年平田村上ケ分(あげぶん)と合併し平田町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7180968