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児島湾
【こじまわん】


岡山市の南端にある湾で,瀬戸内海に開口する。現在は狭長な一小湾にすぎないが,古代には岡山平野南部は広大な浅海で,吉備穴海とよばれ,現在の児島半島は吉備穴海に浮かぶ島であった。高梁(たかはし)川・旭川・吉井川の三大河川はこの海を次第に埋積していった。寿永4年の源平藤戸合戦のころには,馬の背の立たない所は2町ほどであったという。こうして吉備穴海は中央部で陸繋化が進んだため,東の児島湾と西の阿知潟に分かれ,14世紀中頃には瀬戸内海北岸沿いの航路であった安芸地乗りは,児島の北側から南側へとコースを変更した。児島が半島になったのは17世紀初頭といわれる。近世初期の児島湾は河川の堆積作用が進み,干拓による新田の造成が行われた。児島湾の干拓は16世紀後半の宇喜多開墾が始まりで,17世紀には西側の湾奥では加須山新田・高沼新田・備中沖新田など,東側では旭川から吉井川に至る間で備前藩による金岡新田・備前沖新田などが開拓されて,児島湾の面積は約3分の2に縮小された。19世紀前半には西側に備前藩の興除新田が造成された。明治期に入っても,前期には一番開墾,二番開墾,中期以後に藤田組によって一区,二区,三・五区の干拓地が造成された。第2次大戦後も藤田組から農林省に引き継がれ六区・七区が完成し,残存水面はわずかとなった。さらに,水利権のない新しい干拓地の農業水利の安定のため,旭川河口西方で児島湾の一部を締め切って1,100haの淡水湖児島湖が昭和34年に完成した。児島湾奥に注いでいた倉敷川は近世には倉敷から米を輸送する交通路として利用され,児島湖造成時にも彦崎は小型貨物船の港であり,児島湾締切堤防には船舶用閘門も設けられた。旭川下流は水上交通路として重要な役割を果たしており,明治36年に山陽汽船が河口の三幡港から四国の高松を結ぶ航路を開業した。やがて国有化され,宇野線開通によって同43年に宇高連絡船が開設されるまで続いた。岡山市中心部に近い京橋港は貨客のにぎわう商港であったが,旭川河口西の岡山港,東の新岡山港が戦後に開港し,これに移転した。岡山市側から児島半島側への連絡は,かつては渡し船しかなかったが,児島湾締切堤防の完成により短絡化した。さらに岡山~玉野間の産業道路として児島湾大橋が架橋された。古くは児島湾は漁業資源が豊富で,ウナギ・シラウオなどの名産を誇り,浅海独特の漁法が発達していたが,干拓の進行とともに衰退し,児島湖の出現で決定的な打撃を受けた。漁業は残存海面と児島湖でなお細々と継続されてはいるものの,岡山市や倉敷市を抱えている児島湖の流域では,水質汚染が急速に進行し,漁業はもちろん農業用水にも問題が生じるに至った。児島湖の管理者が建設省か農水省か決定しないままに推移してきたので,効果的な対策が講じられなかったことが重要な一因である。現在では児島湖流域下水道が建設中である。昭和60年の湖沼法制定に伴い,児島湖は霞ケ浦など4湖沼とともに指定湖沼となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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