福田新田
【ふくだしんでん】

旧国名:備前
(近世)江戸期の村名。備前国児島郡のうち。岡山藩領。児島半島の南西部に位置し,浦田・福田・広江各村の前面に造成された新田。沖新田とも呼ばれ,福田村の枝村。東高梁(ひがしたかはし)川の沖積作用で水島灘の奥まった入江に寄州ができ,仮堤防がつくられて,寄州は浦田・福田両村の牛飼場となった。福田村民は同地開発を計画,同村と浦田・広江・呼松・宇野津各村の村役人が内談して大庄屋林村九郎兵衛と備中領生坂村大庄屋嘉介を仲間に加えた(佐藤家文書)。そして享保元年林村九郎兵衛から出願した。同2年川上18か村から排水不良を理由に支障が申し出され,江戸出訴となったが,同8年ようやく解決,同年11月に潮留が完了した。最初は浦田村石屋谷から広江村天王鼻へ一直線に堤防を築く計画であったという。享保10年検地が行われ,田93町余・畑62町余の計156町余。「吉備温故秘録」では,朱印高外として高1,317石余。大庄屋手鑑帳による家数・人数は,寛政10年180・1,017,文化元年210・1,126,文政10年232・1,176。氏神は神明神社(現浜田神社)で,福田村の氏神天神宮の末社。寛延元年一之割の現在地へ勧請した。四之割にある観音堂はもと地蔵堂と称し,宝暦11年の建立で潮留堤を締切る際の犠牲者を祀るため建立との伝承がある。嘉永6年観音を合祀,以後観音堂と呼ばれた。当新田地先の開発は,天保6年浦田村のうち黒石の大庄屋永山利右衛門や同八軒屋の大塚利吉などが上申,同10年柳田村汲五平が正式に出願して弘化2年着工。資金不足により途中塩田大地主の野崎武左衛門に交替,嘉永4年完成。同5年543町余が高入され,北畝・東塚・中畝・南畝・松江を福田新田と総称,ために当新田は福田古新田と改称した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7186304 |





