藤野郡
【ふじのぐん】

旧国名:備前
(古代)奈良期に見える郡名。備前国のうち。神亀3年から神護景雲3年にかけて存続。養老5年,備前国邑久(おく)・赤坂2郡の郷を割いて建てられた藤原郡が,神亀3年に改称して成立(続日本紀養老5年4月丙申・神亀3年11月己亥条)。天平神護2年,当郡はわずか3郷で,土地狭少,瘠地多く,貧困であるにもかかわらず,山陽道駅家への公役が重なるため,邑久郡香登(かがと)郷,赤坂郡珂磨・佐伯2郷,上道郡物理(もどろい)・肩背・沙石3郷を加えることを請い,さらに郡治から遠い美作国塩田村を含めて当郡に編入することが許されている(続日本紀天平神護2年5月丁丑条)。ここに見える藤野郡3郷は明らかではないが,藤野郷(続日本紀延暦7年6月癸未条),島村郷(平城宮木簡1解説),坂長郷(和名抄・延喜式兵部省駅名)であろう。この郡域の拡大に際しては,当地出身の藤野別真人清麻呂(和気朝臣清麻呂)や姉の広虫の活動が考えられる。神護景雲3年,藤野郡は和気郡と改称した(続日本紀神護景雲3年6月乙丑条)。その後,延暦7年には,和気清麻呂の建議により,和気郡を割いて磐梨郡を分立している(続日本紀延暦7年6月癸未条)。郡衙は,現和気町藤野の和気氏政庁跡とされる大政(たいまん)付近に比定される。郡域は,のちの和気郡と磐梨郡を合わせた地域で,現在の備前市・日生(ひなせ)町・和気町・吉永町・瀬戸町・熊山町・佐伯町のほぼ全域と吉井町の一部を含む地域に比定される。なお天平神護元年には,当郡人藤野別真人広虫女・右兵衛少尉藤野別真人清麻呂ら3人に吉備藤野和気真人を賜い,当郡大領藤野別公子麻呂ら12人には吉備藤野別宿禰,近衛別公薗守ら9人には吉備石成別宿禰をそれぞれ賜ったと見える(続日本紀天平神護元年3年甲辰条)。また,神護景雲3年にも当郡人別部大原・忍海部興志・財部黒土ら64人に石生別公が与えられている(続日本紀神護景雲3年6月壬戌条)。

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