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宇品町
【うじなまち】


(近代)明治20年~現在の町名。はじめ広島市,昭和55年からは南区の町名。町名は南にある宇品島(元宇品町)にちなむ(旧県史)。明治17年着工,同22年完成の宇品港築港の際開かれた新開である。宇品港は当初無用の長物視されたが,日清戦争前後から軍都広島の軍港として発展した。同27年山陽鉄道(現国鉄山陽本線)が広島まで開通,また広島~宇品港間に軍用鉄道が突貫工事で建設され,軍用桟橋・陸軍運輸部も設置された。また同30年陸軍糧秣支廠,同44年全国一の規模をもつ缶詰工場が建設されるなど,各種の工場・倉庫が集中し兵站基地としての機能を強化した。戦争のたびごとに宇品町の繁盛はめざましく,日露戦争開戦前の明治36年2月の戸数約750戸・人口約3,200人と推定されたが,翌37年12月には約2,300戸・約9,000人にのぼり,軍事輸送に従事する人夫約3,000人を合わせれば約1万2,000人の住人がいたと考えられる(植木新之助日記/新修広島市史)。また飲食店約100軒・料理屋約30軒・宿屋および下宿屋約80軒・人力車夫約300人,元宇品町には貸座敷40軒があり,娼妓200人がいた(同前)。さらに回漕会社・各種卸問屋・魚市場・造船場・鉄工場も相次いで開業(明治33年の広島繁昌記)。神田神社はもと牛田村字神田に鎮座したが,社地が軍用地となり,明治22年宇品町へ遷座し当町の産土神となるが,昭和6年現在地の宇品御幸4丁目へ再移転。大正4年土手沿いに敷設された広島電気(現広島電鉄)の市電は昭和10年宇品本通りに移設。昭和8年人絹日産10t・敷地面積12万坪の錦華紡績が当町西部に設立され,同10年広島女子専門学校(現県立広島女子大学)が下中町から桜土手沿いに移転するなど,西部へ市街地が拡大した。第2次大戦後陸軍運輸部・糧秣支廠などの旧軍施設が民間企業・海上保安部・入国管理事務所などに払い下げ,あるいは転換された。同26年仁保町から金輪島を編入。同30年代に入ると東洋工業が大和紡績(もとの錦華紡績)跡地を取得,ついで宇品町西岸から仁保地先にかけて埋立地を造成し,同41年には宇品から猿猴川河口にかけての巨大な工場群が現出した。旧軍港は第2次大戦後民間使用が許可された。広島港は昭和26年重要港湾に指定され1万t級岸壁4バースの築造など港湾の整備拡充が進められた。大正6年の戸数1,759・人口6,359。昭和35年の世帯数8,439・人口2万9,744。同43年一部が宇品東1~7丁目・宇品神田1~5丁目・宇品御幸1~5丁目・宇品西1~4丁目・宇品海岸1~3丁目・出島1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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