米屋町
【こめやまち】

旧国名:備後
(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は福山城下の町人屋敷地。福山城の南,東は桶屋町・深津町,南は下魚屋町,西は武家屋敷地,北は上魚屋町。町名は,米屋が多く居住していたことに由来する。地内は北から上米屋町・中米屋町・下米屋町に分かれていた。天和3年~元禄11年頃の備後福山町絵図には「米屋町」「同中」「同下」と記されている。「備陽六郡志」によれば,町のそれぞれの規模は112間余・1,455坪余・戸数49(本家27・表借家22),規模112間余・1,497坪余・戸数73(本家26・表借家20・裏借家27),規模114間余・1,704坪余・戸数27。「福山志料」では,それぞれ長さ102間余,戸数51・人数145,長さ112間余,戸数63・人数122,長さ114間余,戸数40・人数101。当町には米座が許可され,米穀の売買,蔵米の販売,津出し米の取締りなどを独占的に行っていた(福山市史)。「備陽六郡志」によれば,水野氏の治政下には米座が設けられ,阿部正福(正)の代にも3年程米座が設けられたが,程なく廃止されたという。地内の上米屋町の北西端には町奉行屋敷,下米屋町の西には町奉行屋敷・郡方会所・長御蔵・御使者屋敷があった。明治初年上米屋町・中米屋町・下米屋町は合併して米屋町となる。明治6年公立小学校洗心学校設立,教員数男6・女1,生徒数男137・女105。同21年の戸数137・人口547。明治22年福山町,大正5年福山市の町名となる。同6年の戸数112・人口581。昭和20年8月の空襲により全焼。同40年城見町1~2丁目・宝町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7188950 |