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猿楽町
【さるがくちょう】


旧国名:安芸

(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は広島城下白神組に属す。広島城の南,外濠に沿った横町で,東は紙屋町,西は元安川に面する。町名の由来は「知新集」によれば,もと能役者・猿楽師が多く居住したからという。毛利氏時代,通りの北側は武家屋敷であったと思われるが,元和5年の城下絵図ではほとんど町屋となり,町間数3町10間。寛永2年の家数改では細工町と合わせ本家87・借屋182。承応3年の切絵図では間数322間余,家数56うち木屋12・医師4,白銀屋・紺屋各3,酒屋・古鉄屋・砥屋各2など。天和3年の切絵図では木屋18・医師6・米屋5・柿屋3・銀屋2など。元安川土手は藩の船着場で,材木蔵・木売所・米蔵が置かれたため,町内には材木商人・米屋が集中した。「知新集」によれば町門2,町間数3町8間余,家数92・竈数213(本竈35・借竈178)・人数947,うち本道医6・桶屋4,指物師・塗師・針医・傘釣灯張・柄巻師・大工各3,鞘師・筆結・紺屋・畳刺各2,建具師・鍔師・取葺・檜物師・衣師各1など。明治7年小学校就徳舎・興文舎設立,同8年の生徒数はそれぞれ300・490(新修広島市史)。同11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治11年元安川対岸の中島慈仙寺鼻との間に有料の東相生橋が架橋。本通りとならぶ東西交通の要地として商店も集中しにぎわった(明治33年の広島繁昌記)。同15年一部が大手町1~9丁目となる。大正4年元安川畔旧藩米蔵跡に広島県物産陳列館(のち産業奨励館)が完成。県内の産業奨励の目的を達するとともに各種美術展覧会場として大きな役割を果たしたが,原爆に被災し,その残骸が原爆記念建造物,原爆ドームとして保存される。大正6年の戸数234・人口779,昭和26年の世帯数123・人口485。同40年紙屋町1~2丁目・大手町1~5丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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