三次藩
【みよしはん】

旧国名:備後
(近世)江戸期の藩名。外様中藩。広島藩の支藩,寛永9年幕府の内意により,前広島藩主浅野長晟の遺領のうち備後三次・恵蘇・御調(みつぎ)・世羅4郡の69か村4万7,150石余,および安芸佐西・豊田・高田3郡のうち3か村2,850石余の計5万石を相続した浅野長治が,三吉(三次)に入部し,上里村比熊山麓に居所を設けて立藩。広島本藩領は光晟が相続し,年長の庶兄長治とで相互に補佐する体制が確立。藩主は長治のあと,長照(広島藩主光晟三男)・長澄(同綱晟次男)と継承され長経に至った。この間,元禄12年長澄は「大借銀御難儀」と称されたほどの財政難に直面し,当時すでに各地で辣腕を振るっていた松波勘十郎を起用して改革に着手。同14年には特産の鉄・紙を藩専売制とした。元禄年間の藩領内訳は,蔵入地3万5,750石,知行地1万4,250石,また藩士は306名(うち知行取110名)。ところが享保4年4月長経が急逝し,無嗣断絶となり一時断絶。同年10月長経の弟主鈴が長寔と改諱し,本藩主吉長から5万石を新封されて再び立藩。しかし翌年長寔も急逝したので無嗣断絶となり,藩領は本藩に還付され廃藩。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7191195 |