国分寺
【こくぶんじ】

防府(ほうふ)市国分寺町にある寺。高野山真言宗。山号は浄瑠璃山。本尊は薬師如来。創建時とほぼ同位置に現存する国分寺は全国的にも稀で,昭和32年に周防(すおう)国分寺旧境内として国史跡に指定された。周防国分寺がいつ創建されたかは明らかでないが,天平勝宝8年12月20日条の26国金光明寺の中に周防が記載されており(続日本紀),その時点では既に造立されている。防州国分寺記録(国分寺文書)では天平19年11月創建とある。延喜主税式に「周防国正税,公廨各廿一万束,国分寺料二万束……」とあり,周防国正税の10分の1近くが国分寺料である。官寺としての国分寺は,荘園制の成立による律令国家財政基盤の衰退により,平安期に入るとしだいに衰えてきた。鎌倉期は,周防国が造東大寺料国となり,俊乗房重源が国司上人となったこともあり,国分寺は復興された。特に,国分寺住職覚恵が周防国目代の職に就くと,目代の地位を利用して国分寺・国分尼寺を再興し,周防国の所々に散在した寺領30町を寺周辺部にまとめた(国分寺文書)。覚恵は中興第1世開基とされた。国衙と一体となって寺領を保持した当寺も,室町期の暦応2年に下小野保を右田重貞に押領されたように,地頭に蚕食されはじめ,同年,佐波令北方について地頭方と和与中分が行われている(同前)。戦国期にはいっそう武士の押領がみられ,特に陶氏の押妨は著しく,寺領10町余が不知行となった(同前)。江戸期には毛利氏の祈祷寺として保護・維持された。6町余,200石余の知行高を保持した(天正17年寺領目録)。正徳4年住職照玉の時に,伊佐江の南,新田の西に20町歩の国分寺開作を築き,260石を加えた。戦国期に荒廃した伽藍も,文禄5年毛利輝元により仁王門,寛永19年に毛利秀就により金堂が再建された(棟札)。毛利重就は明和4年に仁王門,安永9年に金堂を修復した(ともに県文化財)。寛保3年慈竜の時に紫衣と菊桐の紋の使用を許され,朝廷の祈願所としての地位を高めた。明治の排仏毀釈の動きの中で,塔頭の分離移転・廃止はあったものの,寺は維持された。金堂薬師如来の脇侍日光月光菩薩立像,四天王立像,および阿弥陀如来座像は藤原期の作として国重文であり,紺紙金泥般若心経後奈良院宸翰も国重文である。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7192831 |





