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中山村
【なかやまむら】


旧国名:周防

(近世)江戸期~明治11年の村名。周防(すおう)国玖珂(くが)郡のうち。錦川支流の生見(いきみ)川上流域に位置する。地名の由来は,「地下上申」によると,往昔,甲斐次郎・大郎という兄弟が当地へ住み着いたが,ある時,甲斐将監勝盛という者がこの兄弟を尋ねてきて,「縁ぞかし雲の行かたかんがえてなじむぞ今は山中の中」と詠んだ。返歌として兄弟は,「振捨てて今ぞ楽しむさよの山中」と詠んだ。これによって中山村というようになったという。「注進案」では,二台木山・土打原・鹿向などの高山深林に囲まれた地のためとある。「大永記録」(山代温故録)では伊木見郷に二代木・土打原・鹿穴が含まれており,この地が当地を指していたと考えられる。慶安2年に生見村から分離して成立したと思われる(注進案)。萩藩領。奥山代宰判に属す。なお,「元禄郷帳」では生見村の中に含められている。村高は,寛延3年1,752石余(地下上申),「注進案」1,076石余(諸引石残余),嘉永3年では,1,754石余うち諸引石650石余(郡中大略),「旧高旧領」1,755石余。「地下上申」によると,田1,134石余・畑617石余,ほかに紙漉舟役銀492匁余,家数282・人数1,008(男478・女530),牛81・馬2。「注進案」によると,田651石余・47町9反余,畑424石余・95町8反余,御帳面楮2,408釜余(把銀として33貫目余)。「郡中大略」では諸引方のうち田の石下げ445石余,畑の除石142石,田の休石12石余,畑の新荒所50石余,物成高のうち田48町7反余で高655石余,畑は95町6反余で高423石余。このほかに,楮畑109町8反余,御帳面楮2,196釜余うち659釜余は休釜,家数282・人数1,037(男525・女512),牛152・馬14。「注進案」では,家数282・人数1,004(男492・女512),陪臣3軒,地手子1軒。牛153・馬16。また,地下医師と家大工が1軒ずつあった。村役人は庄屋1人,畔頭5人。元和元年以来,二代木山の下草刈りをめぐって,岩国領の釜ケ原村としばしば境界論争を起こした。文化9年に精細な絵図を製作し,両村共同の下草刈り入会地と各村の入会地とを決めて解決した(美和町史)。宰判内で最も紙漉農家の割合の高い村の1つでもあり,「郡中大略」によると,農家276軒のうち96軒が紙漉(35%)。小村(小名)は,本中山(ほんなかやま)(野々尻・上り河内・下垣内・向河内・野谷),程野(阿伊羅ケ谷・神田原・三原・森田・深清・六郎谷),大垰(おおたお)(迫・大垰・後川・道祖ケ原・竹の本・足谷・五所ケ谷・落合),二ツ野(空穂谷・岡ノ原・風呂の本・大江・堤ケ垰・中田・政所・東迫・小ふけ・槙郷)がある(注進案)。鎮守は牛ケ垰の八幡宮であるが,9月の氏神祭りには生見八幡社へ参詣する(同前)。八幡宮は,社伝によると宝徳元年に生見の正一位八幡宮を勧請したもの。ほかに二ツ野の鎮守に河内大明神・白羽大明神があった。野々尻の曹洞宗石仏山普門院は古くより当村の祈祷所。明治4年山口県に所属。超専寺の村田塾,防万寺の黒田塾,笠井塾の3寺子屋がともに安政元年に開かれ,明治11年に廃止された。同年北中山村と改称(県文書館蔵区戸長願伺)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7193900