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舟木市村
【ふなきいちむら】


旧国名:長門

(近世)江戸期の村名。長門(ながと)国厚狭(あさ)郡船木村のうち。有帆川中流左岸の沖積低地と丘陵に位置する。地名の由来は,神功皇后の朝鮮出兵の際,多くの兵船建造のために切った楠の大樹があったことによるといい,この楠の跡を大木森と称し,住吉神社を祀っている(地下上申・寺社由来・注進案)。萩藩領。舟木宰判に属す。当村名は,八箇国時代分限帳(県文書館所蔵文書)に船木市給8石9斗2升4合と見える。慶長15年検地帳では市屋敷145か所,寛永2年検地帳では同じく143か所とある。古くから山陽道上に発達した集落で,文明12年大内政弘に招かれて山口に下向した宗祇が,船木の吉祥院に泊まり,「此船木といへるは神功皇后御船を作り給ひけむ所となん」と書き残した(筑紫道記)。「注進案」は船木村を舟木村・舟木市村・逢坂村に分け,当村の村高は932石余,田48町3反余・畑11町8反余,一円毛利備前(厚狭毛利氏)知行所とある。また,「在宅之御足軽以下并陪臣」に直臣の御物送御番所手子2人,御鳥飼・新六尺各1人,陪臣17人,小名に蛭子(えびす)町・綿屋町・中市町・田町・鈍々(どんど)町・新町・山田・地蔵寺・峠(たお)・迫・林・興福寺・権現免・向山・指月峠(しづきたお)・六田・大木森・棯添(うつぎそえ),家数384・人数1,544うち男780・女752・僧10・社人2,軒数のうち酒屋4・油屋3・大工8・畳屋3・桶工5,産業の徳銀(年間)は,およそ木綿(1,670反)3貫700目,櫛職54貫500目,唐櫛職18貫800目,櫛商い10貫600目,大工・木挽・桶工・左官・畳屋・石工14貫500目,酒屋・油屋・醤油屋・酢屋22貫800目,薬店9貫500目,挑灯屋・仕立屋・張付師2貫500目,鑄懸屋・金具屋1貫目,鞍細工1貫400目,菓子屋・糀屋750目,素麺屋2貫目,木履職900目,小質屋6貫500目,紺屋職14貫600目,綿商い12貫500目,帽子職4貫600目,荒物濃物商い33貫目,染地反物商2貫700目,古手商い2貫500目,小米商い3貫400目,鍛冶屋職7貫600目,旅宿屋12貫600目,魚其外荷い売7貫500目,水車米搗賃500目,煮売屋1貫500目,風呂屋・髪結床1貫700目,綿打紺屋手間賃9貫240目,日雇駄賃・石炭掘賃23貫700目とあり,計287貫目余,多彩な経済活動が行われていた。石炭と櫛は早くから船木の特産として著名で,「毛吹草」や「和漢三才図会」にも記されている。その由来について,神功皇后が船をつくらせた時,供の老翁が木屑を四方にまいて置けば石になり,薪にすれば燃えると予言(万倉村宮尾八幡宮当社記/注進案),神功皇后の朝鮮出兵の首途の祝いに,長田庄司なる者が櫛3枚を捧げたのが「三ツ櫛」の始(注進案)という伝説もあった。また,豊臣秀吉は,船木櫛を天下一と称したとする伝承もある。村の経済活動の中心は舟木市で,本町筋の家数は126軒,本往還山陽道に沿う市町,本陣御茶屋・代官所・勘場・番所・高札場・旅人荷付場・駅が置かれていた。このうち本陣御茶屋・代官所・勘場・番所・旅人荷付場は,蔵入地の舟木村の飛地の扱いであった。御茶屋・番所は幕府役人・九州大名通路の節の休泊所などに供した。駅馬は,享保19年に10匹(地下上申),天保13年に15匹(注進案),人足は定員がない(同前)。当村軒数のうち宿役軒数は135軒,すべて本百姓扱いであった。一里塚は市の東外れにあり,安芸境小瀬川(現岩国市)より27里,赤間関より9里であった(地下上申・注進案)。米蔵は市に2か所,うち1か所は社倉であった(注進案)。神社は岡崎八幡宮・住吉社,寺院に真宗願生寺・同正円寺がある。




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「角川日本地名大辞典」
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