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上山村上分
【かみやまむらかみぶん】


旧国名:阿波

(近世)江戸期~明治12年の村名。名西(みようざい)郡のうち。鮎喰(あくい)川の最上流域に位置し,同川およびその支流の神通谷川・江田川・北谷川の各流域からなる。周囲は雲早山・東宮山など四国山地の高峻な山々が連なる。地内には中世の板碑が約90基現存する(神山の板碑)。徳島藩領。もと当地は上山村下分とともに大粟山上山と称され,上山村とも呼ばれたが,延宝3年に上分・下分に分かれ,それぞれに庄屋・五人組が置かれ,以降上山村上分・上山村下分でそれぞれ独立村を形成した。ただし高辻帳などでは下分を合わせて上山村と記され,その高は,寛文4年の高辻帳で763石余,享保元年の高辻帳と天明7年の高辻帳も同高,「天保郷帳」で1,466石余。「旧高旧領」では下分と分けて記され,高1,497石余ですべて蔵入地。なお慶長13年の検地帳には「大粟谷上山分」と見える(大粟家文書)。「阿波志」では「上山上」とあり,村内は江田・金泉・中津・大中尾・骨川・府殿・櫧平・奥第(奥屋敷)・殿地(殿宮)・大影・野保路(のぼろう)・坂丸・柿道・江畠・入手(ゆるで)・有掛・川又・門屋・一宇部・立岩・茗苛平・西久地・中宗・本(名)・石本の25名(みよう)からなり,耕作地は等級中の水田が10分の2,陸田が10分の8とある。また上山村(上分)棟附帳による村高・家数・人数(男子のみ)は,万治元年で808石余・326軒・1,013人,延宝2年で1,259石余・476軒・1,317人,享保9年で1,114石余・811軒・1,697人,明和6年は986軒・1,878人となっている(稿本上分上山村小風土記)。なお享保9年の各名ごとの家数は,川又42・門屋23・江田85・金泉64・中津42・大中尾51・奥屋敷8・府殿31・本根川51・殿宮80・野保呂14・大陰13・入手30・柿道24・江畠24・坂丸23・石本19・立岩11・一宇夫29・名22・名ケ平51・西久地20・中峰24・有掛15・樫平15となっている。神社は黒松八幡神社など8社(県神社誌)。このうち黒松八幡神社では,旧暦11月卯の日に卯の市がたち,にぎわった。また東宮神社は東宮山々頂にあり,口碑によると屋島の合戦後,安徳天皇が同山中に逃れ天神地祇を祀ったのが始まりといわれ,多くの平家伝説を残す。雲早神社は雨乞祈願の社として知られ,雨の宮と俗称された(名西郡誌)。寺院は真言宗妙法寺がある。なお雲早山北山腹には名勝神通滝がある。主な物産は木材・薪炭・和紙・菎蒻玉・藍・煙草・わらび・川魚などで,ほかに役牛飼育も盛んで,上山牛と呼ばれ,文化7年には792頭を数えた(同前)。天正13年蜂須賀氏入国にあたり,祖谷山(いややま)・仁宇谷などと呼応して当地方でも山間土豪を中心とする一揆が発生したが,下って文政2年には,上山村上分・下分の農民が五日夫・入木・番縄・井料米など諸懸物の取立てをめぐって庄屋・五人組の不正を追及し,上山騒動(馬割帳騒動)が発生した。神領村上角の農民を加えた約700人の一揆勢は神領村神宮寺の郡代手代詰所に強訴して,村役人の罷免などを要求,さらに徳島城下に押し出そうとしたが,その途次名東(みようどう)郡一宮村の組頭庄屋河原周助らの説得により帰村した。その後,一揆指導者ら数十人は捕縛され,他方河原周助はその功により小高取に任用された(下分上山村史)。慶応3年にはええじゃないかが当地にも波及,その記録によれば「十二月十三日頃鬼籠野踊リ始メ,当名モ十六日より相移大はずみ,極月廿三日氏神様ヘハ伊勢大神宮御祓十枚御降リ相成……又七日の夜名中より歓びくれ大踊に相成」と見える(上分上山村史)。なお幕末から明治初年にかけて川又・北谷・金泉・江畠・入手・中津・府殿・門屋などの各名に寺子屋が開かれた(同前)。明治4年徳島県,同年名東県を経て,同9年高知県に所属。明治6年農民高橋弥十郎を主導者として地租改正反対の農民一揆が発生し,弥十郎騒動と呼ばれた。一揆勢は妙法寺の鐘をつき鳴らし各地で気勢をあげたが,県は邏卒・旧郷士・郷鉄砲などで鎮圧隊を編成,官憲の強力な鎮定工作により遂に一揆勢は解散し,弥十郎ら多数の農民が逮捕された(下分上山村史など)。同12年上分上山村と改称。




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「角川日本地名大辞典」
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