川内村
【かわうちそん】
(近代)明治22年~昭和30年の板野郡の自治体名。吉野川下流デルタ地帯に位置し,吉野川と今切川に囲まれる。大松村・加賀須野村・中島浦・榎瀬村・沖之島村・平石村・米津新田・富久新田・富吉新田・松岡新田・宮島浦・鶴島浦・鈴江村・小松新田・金岡新田・別宮浦村・金沢新田・竹須賀村の18か村が合併して成立。旧村名を継承した18大字と別宮浦から新たに起立した下別宮・上別宮・向別宮の3大字を加えた21大字を編成。中央部に位置する沖島に役場を設置。地名については,江戸期から用いられたものと思われ,安政5年の第十堰御普請付諸窺留書並ニ諸配書控共(川内村史)によれば,宮島・鶴島・鈴江・沖島・榎瀬・中島・大松・竹須賀・平石・加賀須野の10か村が藩に提出した堤防補強嘆願に「川之内十か村」と見える(同前)。なお寛政年間御国絵図(同前)によれば,当地は,島々の集合で旧堤に囲まれた輪中をなしており,旧讃岐街道以東の海岸地帯は近世に開発された新田集落であることが窺える。なお地内の榎瀬・中島・鈴江・鶴島・大松・下別宮からは,ハマグリやシジミが弥生式土器とともに出土している。明治24年の戸数2,736・人口8,013(男4,008・女4,005),厩407,寺8,学校4,船426(徴発物件一覧表)。江戸期から明治前期までは耕地の70%が米作,30%が藍作であったが,明治20年頃から藍作が衰退し,約800町の水田全部に米を作るようになり,県下有数の米どころとなった。世帯数・人口は,大正9年1,138・6,122,同14年1,108・5,973,昭和5年1,061・5,831。昭和3年金沢は徳島市金沢町,別宮浦・向別宮は同市大岡別宮町となる。同9年加茂町上助任の一部が当村の大字上助任となる。昭和7年の現住戸数1,055・現住人口6,287であるが,転出人口が男1,195・女1,112,転入人口は男125・女100で転出者が多く,人口は明治期以降減少傾向にあった。同年の職業別戸数は,農業本業490・副業214,水産業本業30・副業70,工業本業76・副業30,商業本業80・副業58,交通業本業20,公務及自由業本業51などで第1次産業は本業で49%を占めた。同年の面積は水田762町1反7畝・畑76町,二毛作田が水田の72%に達し,一毛作田が28%(213町1反9畝)ある。米の作付面積793町4反に対し収穫高は2万2,077石で,県下最高であった。収量は小松・下別宮・富久・米津などの塩害地を除いて反当2石7~8斗である。明治33年川内村農会成立以来深耕普及に努力したが,新田地区では地下水に塩分が混じるようになり,この面積が150町に達した。稲の裏作の麦類は裸麦が中心で昭和7年の作付面積332町8反・収穫高4,990石であった。明治30年頃から藍作の衰退とともに,養蚕が榎瀬を中心に導入され,同43年には400戸・掃立量1貫500匁・収繭量4,000貫と最盛期を迎えたが,漸次減少し,昭和元年頃には収繭量2,900貫・生産額8,500円となった。一方,明治43年頃からキュウリ・ナスを徳島市に出荷するようになり,大正3,4年頃から神戸市にもはじめて出荷した。キュウリ・ナスの生産は下別宮・小松・宮島が中心であったが,同9年出荷組合を設立し,阪神方面にも出荷するようになった。作付面積は,インゲンマメ47町・キュウリ12町・ナス9町・スイカ11町・カボチャ1町2反・里芋27町・豆類3町5反で,生産額は4万5,000円であった。ほかに大豆3町8反・甘藷30町・小豆5反・馬鈴薯1町5反があった。大正7,8年頃から日本梨が加賀須野・中島で栽培されはじめた。同14年には先進地である静岡県加島村を視察し,技術導入を図った。昭和9年には5,320本・5万7,200貫・1万296円の生産があり,当村では米41万円・麦5万円・園芸作物3万3,000円・水産業1万7,000円などに次ぐものであった。畜産も盛んで同年の牛の飼育戸数63戸・頭数73頭,総農家数711戸の51%にあたる360戸が馬349頭を飼育していた。耕耘は馬耕が中心で,深耕犂は大正14年には780挺にも達した。大正4年には川内産馬協会を設立して,農村の副業として産馬事業に取り組むようになった。同11年には板野郡畜産組合経営の種付所が完成,北海道・東北地方から数頭の優良牝馬を購入して,県下でも優良馬産地となった。昭和7年の養豚戸数37・頭数66頭,養鶏戸数728・5,700羽。水産業従事者364人のうち専業は92人に過ぎないが,5t未満の漁船が194隻あり,漁獲高は同9年ボラ4,000貫・鰻1,200貫・カキ250貫・コノシロ500貫・蛤1万5,000貫などがあった。同年大松と加賀須野には清酒醸造販売会社3,榎瀬・鈴江・大松・沖島・宮島には精米工場5,宮島に醤油製造1,宮島には江戸期に加子役が賦課され船大工の伝統を反映して造船工場3があった。同年のその他各種の営業者は,物品販売業104・職工37・運送業16・請負業6・理髪人9・周旋業5・風呂屋2・仲買人7・代書人3などであった(川内村史)。大正11年沖島・竹須賀・榎瀬・大松・平石・宮島・鶴島などでは小作人組合を結成して,小作料の減額を要求したが,地主側も組合を作って対抗した。昭和22年の当村の小作地は183町5反で耕地面積の23%に及んだ。昭和4年久木耕地整理組合が設立され,応神村古川から当村榎瀬にいたる自然堤防上の桑畑14町2反9畝を開田するため,鯛浜橋上手の今切川から淡水を取水して灌漑することになった。昭和初期の農事改良実行組は31組・組合員736人・耕作反別823町4反3畝であった。昭和9年の国税は1万5,272円(16%)・県税3万5,871円(38%)・村税4万4,046円(46%)。歳入は10万2,441円,明治23年度は4,155円のうち役場費32%・教育費26%であったが,同30年は9,373円のうち役場費18%・教育費18%,同40年は1万1,368円のうち役場費32%・教育費27%,大正5年2万5,911円のうち役場費22%・教育費32%,昭和8年10万541円のうち役場費10%・教育費27%であった(同前)。大水害のあった明治25年度は村費の74%が土木費であった。当村では江戸期から大松と金沢・向別宮とで寺子屋教育が行われたが,学制発布後4小学校が設置され,のち川内北・川内南の2小学校に統合された。当村は今切川と吉野川に囲まれる水郷地帯であるから,徳島・撫養・北島方面へ出るためには渡しが必要であった。徳島へは吉野川を渡る別宮渡し・鈴江渡しがあったが,吉野川改修工事後は県営の発動機船による巡航船渡となった。撫養へ通じる広島への加賀須野渡しは県営架橋が完成したので廃止され,長原へは今切川河口を渡る長原渡しが現在も存続している。昭和3年応神村古川と徳島市上助任を結ぶ東洋一の吉野川橋が完成し,淡路街道と接続され鳴門方面への陸上交通に大変革がもたらされた。昭和7年の田762町1反7畝(乾田516町9反5畝・湿田245町2反2畝)・畑76町・宅地184町1反8畝・山林7町2反9畝(大部分が小松新田)・原野141町8反7畝・池沼7町7反・墓地3町8反8畝・水路敷17町6反7畝・堤敷29町1反1畝(輪中堤)であった。同27年の世帯数1,295・人口7,045。昭和22年の産業別人口は,就業人口3,135人のうち農業64%・水産業3%・建設業3%・製造業11%・商業4%・金融業1%・運輸通信業2%・サービス業1%・自由業3%・公務員6%。同年の耕地面積828町のうち水田756町(91%)・畑72町(9%)。総農家782戸うち専業55%・第1種兼業21%・第2種兼業24%,自作84%・自小作14%・小自作2%・小作0.6%である。経営規模3反未満14%・3~5反12%・5反~1町25%・1~2町37%・2~3町11%・3~5町1%で平均経営規模は1町5畝で県下最大である。農地改革による解放面積は294町で耕地面積の36%。昭和26年の作付面積・収穫高は,水稲750町・2万250石,裸麦190町・2,850石,甘藷35町・17万5,000貫,馬鈴薯15町・3万5,000貫,里芋5町・2万貫,大豆10町・120石,ソラマメ40町・2万5,000貫,大根3町・2万2,500貫,タバコ1町5反・2,500kg,菜種15町・195石であった。飼育戸数・頭数は役肉牛431戸・441頭,馬161戸・162頭,乳牛41戸・50頭(搾乳量160石),鶏579戸・5,535羽で,ほかに山羊39頭を数える。昭和26年の水産業は18戸で専業が15戸,動力船28隻・漁業組合3・漁獲高9,800貫である。同年度の租税は2,029万円で県税210万円・村税1,819万円で,1人あたりの負担額は2,789円である。昭和30年徳島市の一部となり,村制時の21大字は鈴江から起立した南川向,小松から起立した旭野・松ケ枝とともに川内町を冠称し同市の町名に継承。
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7195723 |