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勝瑞城
【しょうずいじょう】


阿波屋形・勝瑞屋形とも呼ぶ。中世の平城。板野郡藍住(あいずみ)町勝瑞に所在。国鉄高徳本線勝瑞駅の北西600m,旧吉野川南岸の自然堤防上に位置する。北は旧吉野川,東は今切川に面する。南は後背湿地に面している。現在では吉野川平野の中央部に位置するが,当時は湿地帯などが多く,また川幅も広くて攻めにくい地形であって,しかも海岸線も現在より内陸部にあり,水上交通には便利な地形であったと考えられる。城は南北約60m・東西約80mの方形の館造りで,周りに幅18mほどの水濠を巡らし,その掘り上げた土は城内の盛り土に使用されるなど,洪水の多い吉野川平野の城の特色を示している。現在,城内には三好氏の菩提寺である見性寺がある。城外には馬木に地福寺があり,そのほか多数の寺院跡や城下町に関連する遺跡がある。その範囲は勝瑞字西勝地(通称馬木)・東勝地などで,以前は北から西方にかけて土塁が巡らされていて,防御とともに洪水にも備えていた。南には千間(せんげん)堀と呼ばれる小堀があり,さらに一定の距離をおいて南千間堀があり,東方の今切川に達している。また,南方の幸島に大門跡があり,旧吉野川北岸には市立場(鳴門市大麻町市場)があった。この付近までが城下であったと考えられる。従来城域を広く解釈する説が行われているが,これらは誤りである。城主については一説に承久の乱後阿波の守護となった小笠原長清がここに守護所を置いたのに始まるという(県史)。また,土御門上皇の行在所も勝瑞であったという説もある。その後,南北朝期の応安年間に,守護細川詮春が秋月(板野郡土成(どなり)町)から勝瑞に移ってきたとされ,その後勝瑞は長く阿波の政治・文化の中心として栄えた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり,また両細川家の乱では細川澄元党,次いでその子晴元党の拠点となった。のち天文21年,家臣三好義賢(のち実休と号する)が守護細川持隆を殺害し,その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵して,三好党の名を天下にとどろかせた。永禄5年,泉州久米田の合戦で実休が討死し,その子長治が跡を継ぐが,元亀3年に家臣篠原長房を滅ぼしてからは,阿波の国内も乱れ始め,天正5年,長治は細川真之党のために板野郡長原(松茂町)で討死した。天正6年,三好長治の弟で讃岐の十河氏の養子である存保が勝瑞城主を継ぐが,このころから土佐の長宗我部元親の阿波国への侵入が激しくなり,天正7年には脇城外の戦いで多数の三好氏の有力武将が討死し,存保も勝瑞を支えきれずに,翌8年に讃岐へ逃亡するが,翌天正9年再び勝瑞に帰り,さらに天正10年織田信長の四国征討軍の先鋒となって阿波に入った三好山城守笑岩も勝瑞に合流。一時三好党は勢力を盛り返したが,本能寺で信長が討死すると笑岩も急ぎ畿内へ帰国して,それを機に同年8月,長宗我部元親は大挙して勝瑞へ押し寄せ,中富川の合戦で三好軍に圧勝し,勝瑞城を囲んだ。城主存保は籠城20日余ののち,城を明け渡して讃岐へ去り,以後城は廃城となった。昭和31年2月7日,城跡は県史跡となる。城跡は平野部にあるものとしては,よく保存されている。




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「角川日本地名大辞典」
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